あなたにとって遊びとはどんなものだろうか。「気晴らし」「ゲーム」あるいは「仕事の反対」と考える人もいるだろう。
アップルのコンピュータのデザインを褒め称えるとき、「遊び心がある」と言うように、「遊び」という概念は、現代において重要な意味を持っている。その一方で、わたしたちはいまだに過去のモデルを使って、遊びを理解しようとしている。かつてオランダの文化史家ホイジンガは、「ホモ・ルーデンス」という概念を作り出し、遊びを「疑問の余地のないルールによってひとつの別世界を作り出す公正な争い」だと述べた。遊びの理論は大抵この研究をもとにしている。
しかし本書で提唱する遊びの本性は、ホイジンガのそれとは異なる。「遊び」は現実や仕事、スポーツなどと対置されるものではなく、世界のうちに存在するモードのひとつなのである。
ゲームと遊びはイコールではない。ゲームとは遊びの単なる一形式であって、唯一の形式ではない。あくまで遊びという生態系の一部にすぎない。
本書は遊びの生態系自体を探求する。ビデオゲームやスポーツ、インタラクションデザイン、おもちゃ……これらを重要なものにしている力そのものを、遊びだと捉える。
この遊びの理論は、道具化された機械論的な考え方に対する反動として生まれた。そして効率性、まじめさ、技術決定論に対する抵抗として、遊びを再度見つめ直し、遊び心による武装を呼びかけるものである。
わたしたちは、生産活動としての遊びを取り戻さなければならない。遊びはわたしたちを世界のうちに存在させるとともに、それを表現するモードだ。わたしたちは遊びを通して世界を経験し、構築し、破壊する。
何が人間を人間足らしめているのか、わたしたちは理解する必要がある。遊びには、わたしたち自身がどうなりたいのか、あるいはどうなりたくないのかがあらわれる。つまるところ、遊びは人間がすることなのだ。
iPhoneは、電源を切ってしまえば何の機械なのかわからない長方形の物体だ。だが電源が入り、ソフトウェアが作動すると、ほとんど無限の能力を持った機械になる。
わたしたちを取り巻く現代のテクノロジーの多くは、あるものをその本来のあり方とは別のものに見せるために使われている。電話はもはや感情に訴えかけるマルチメディアになろうとしており、いずれはエスプレッソマシーンが恋人になることもあるかもしれない。
わたしたちが生きている時代は、感覚と感情に訴えかけることを意図して作られたデザインであふれている。アップルコンピュータに見られる、フォルダを開くときや最小化するときのアニメーションには、あるメッセージが込められている。それは「この機械は真面目くさったコンピュータではなく、創造性を引き出してくれるものである」ということだ。こうしたデザインを通した感情の刺激は、デジタルテクノロジーの分野に限らない。どの企業も従業員や顧客に、自分たちをともに遊ぶ仲間だと感じてもらおうとしている。
わたしたちは自分の人生が、ダイナミックで魅力的なものになってほしいと思っている。それと同時に、自分の人生が実利的で成果を生み出し、まじめで有益なものであってほしいとも思っている。そこで求められているのは、
3,400冊以上の要約が楽しめる