群衆という言葉は通常、任意の個人から成る人間の集団を指す。しかし心理学の観点では別の意味をおびる。一定の状況にある人間の集団において、集団に属する個人の感情や観念は同一の方向を向き、非常にはっきりした性質を示す。
感情や観念が同方向である集団のことを、仮に心理的群衆と名付けよう。心理的群衆は、多数の個人が偶然集まったからといって、すぐには構成されない。心理的群衆となるには、何らかの刺激が必要とされる。心理的群衆からわかる事実は、それを構成する個人の職業や生活あるいは知力の類似や相違にかかわらず、その個人が群衆になり変わり、一種の集団精神をもつということだ。この集団精神の芽生えにより、個人の感じ方、考え方、行動の仕方が、集団に属する前と後でまったく異なることになる。
ではなぜ、群衆の一員である個人と、単独の個人が大きく異なってしまうのか。それを考えるにあたっては、無意識が有力な作用を与えることは見逃せない。わたしたちが意識的にとる行為は、無意識の基盤から生じている。日常的な行動の大部分は、自分さえも気づかない隠れた動機の結果なのだ。いくら卓越した知能を持っていても、感情についての水準が大幅に異なるということはほとんどないため、個人が支配される無意識的要素は、だいたいの人が同程度もっているといえる。
つまり、性格の大部分が無意識に支配されているということが、群衆に共通に存在する性質なのである。そのため、集団的精神をもった個人は、その知能や個性を失い、無意識的性質に支配される。したがって、群衆は高度の知力が必要とされる行為を遂行できない。優秀な人物たちの会議で採決された結果が、愚か者の会合で採決された結果よりも優れているとはいえない。なぜなら、優秀な人物たちの集まりであっても、すべての人が所有する凡庸な性質を結合させるにすぎないからである。
群衆に属する個人が凡庸な性質を持つだけなら、平均の現象が起こるだけだ。しかし群衆は、個人ではできない野蛮な行為も簡単にこなしてしまう。ではそうした行為は、なぜ導かれるのだろう。主要な3つの要因を紹介しよう。
原因の1つ目は、責任観念が希薄になることである。群衆に属すことで、個人の責任観念が薄れ、本能のままの行為が引き起こされやすいのだ。2つ目は、群衆においては感情や行為が感染しやすいことである。3つ目は、群衆においては被暗示性が高まるためであり、これは最も着目すべき原因だ。この性質は、群衆に属する個人を「もはや彼個人ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形」にしてしまうほど強力な力をもつのだ。
本書で紹介されている、群衆に容易に観察されるいろいろの性質の中から、主だったものを述べてゆこう。
先に述べたように、群衆は暗示にかかりやすい。そして、理性の力にたよることができないために激しい感情に活気づけられ、批判精神にも欠けていることから、物事を極度に信じやすい性質をもつ。群衆にとっては、真実らしくない事象は存在しない。荒唐無稽な伝説や逸話が、群衆から生み出されやすいのは、群衆のこのような性質によるのである。
群衆の感情は非常に早く伝播する。ただし、群衆中の個人は、微妙なニュアンスを介さず、物事を大まかに見る。そのように、群衆の感情は単純かつ誇張的であるため、その強さを増しながら、広がっていく。こうした、群衆に特徴的な感染は、群衆自身に疑惑や不確実の念を抱く余地を与えない。
群衆には、責任観念が不足している。そのため、単独でいる個人では考えられない過激な感情をもち、行動することがある。単独でいる個人は行為に伴う罰を恐れ、本能に従わないことが多い。しかし、その個人が群衆のなかに吸収されると、個人の責任観念が薄れ、狂暴な破壊本能に従いやすくなってしまう。
群衆は程度の高い推理と同じように連想にもとづき推理するが、その際、類似や関連する外見上の関係しか用いない。例えば、勇敢な敵の心臓を食べれば、自分も勇敢になれると思い込むといった
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