『葉隠』は、江戸中期の将軍吉宗の時代、享保元年(1716年)ごろに、2人の佐賀藩士によって生み出され、完成したとされている口述の聞書である。
口述者である山本常朝(やまもとじょうちょう)は、佐賀藩の二代藩主鍋島光茂(なべしまみつしげ)の側近として仕えた人物だ。光茂は常朝が42歳のときに亡くなった。常朝は主君のあとを追って切腹するつもりでいたが、これは許されず、後を追うことがかなわなかった。彼はやむなく出家し、佐賀市にある金立山(きんりゅうざん)の山すそで余生を過ごした。
常朝の口述を筆録したのが、田代陣基(たしろつらもと)である。陣基は常朝よりも19歳年下で、3代藩主綱茂(つなしげ)の文書・記録をつかさどる役割を担っていた。だが、32歳のときに解任され、失意のなか、常朝の草庵を訪ねることとなる。その後、約7年の歳月を費やし、常朝の談話を筆記していった。失意の底にいる青年にとって、常朝の言葉は心にしみるものだっただろう。
『葉隠』は、武士の生きざまを生々しく伝える書だ。常朝は『葉隠』の中で、佐賀藩の藩祖鍋島直茂(なべしまなおしげ)や初代藩主鍋島勝茂(なべしまかつしげ)、さらには9歳のころから仕えた鍋島光茂(なべしまみつしげ)はじめ家臣団のことを語っている。
『葉隠』は、総論ともいえる位置づけの序文「夜陰の閑談」と、「聞書1」から「聞書11」までの全11巻から成る武士道の教訓・説話集である。
「夜陰の閑談」には4つの請願が掲げられている。「武士道において後(おく)れをとってはならないこと」「主君のご用に立つべきこと」「親に孝行するべきこと」「大慈悲(悲しみ哀れむ心)を起こして人のためになること」だ。これらの請願を毎朝仏神の前で自分の心に刻めば、後ずさりせず、一歩ずつ前に進めるようになるのだという。
『葉隠』においてもっとも有名な一文は、「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」だ。この言葉は、死を美化・奨励しているのではないかと誤解する人もいるかもしれないが、決してそのようなことはない。死ぬか生きるか、二つに一つという場合に、いち早く死を取るだけのことだ。
人はだれでも、死ぬよりも生きるほうが好きなものだ。往々にして人は好きなほうに理屈をつけるものである。
目的を果たせず死ねば犬死だが、決して恥ではない。毎朝毎夕、繰り返し命を捨てる修行を積み、常に死に身になってはじめて、武士道において自由を得て、一生失敗なく家職を果たすことができる。つまり、決定的な場面では自分の利害に関係なく、身を処す覚悟を持つこと。そして、死に身になる心構えを持って生きることで、生に真摯に向き合い、無事に奉公し続けることができるのだと説いている。
常朝は『葉隠』の中で、奉公にどう取り組むべきかを説いている。現代人にとっては、仕事への取り組み方に読みかえられるだろう。
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