テンセントは長い間、インターネット界において謎めいた存在であった。テンセントの創業者である馬化騰が、取材に応じることはめったにない。テンセントの扉は固く閉ざされ、メディアの取材を受け付けないばかりか、学術界からのリサーチの依頼すらも断ってきた。
1998年に創業されたテンセントは、20年間のうちに中国初のデジタル革命の旗手となった。一方でテンセントは、自社の歴史に無頓着な企業だ。同社の歴史に関する資料も、保管されることは少なかった。本書では、そんなテンセントの発展の軌跡を追っていく。
「シャイで物静かな馬化騰がよくぞ企業家になったものだ」。馬の中学・高校や大学の同級生、教師は、みな口を揃えてこのように述べる。馬本人ですら、自分がこのような大企業を経営するとは、予想していなかっただろう。
馬とその創業パートナーである張志東(ジャン・ジードン)はかつて、3年目のテンセント社の従業員数を18名と計画していた。そこから企業規模が大きくなるにつれ、馬化騰は何度も会社の売却を検討したが、ついに引き取り手が現れることはなかった。
いまやテンセントの時価総額は世界第8位(2019年6月時点)。同社が開発したインスタントメッセージサービス、ウィーチャットのユーザー数は、11億人に達している。またテンセントは、2004年に中国のインターネット企業として2番目に香港証券取引所に上場した。
馬化騰が大学を受験したのは1989年のことだ。この年、中国ではある政治的事件が発生し、ほとんどの大学生の親は、子供が地元を離れることを望まなかった。馬は大学入学のための全国統一試験で、北京の清華大学や上海の復旦大学にも入れる点数を獲得した。だが、他の学生同様、地元の深圳大学に入学した。
電子工学科のコンピュータ専攻を選んだ馬は、C言語の勉強とGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)作成に力を入れた。共同創業者の張らも馬の同級生であった。彼らはよくウイルスプログラムを書き、大学のコンピュータ室のマシンをフリーズさせた。
1990年代半ばから2000年のインターネットバブル崩壊に至るまで、中国のインターネット企業は全てアメリカの模倣であった。ニュースポータル、メール、検索サービス、さらにはインスタント・メッセージング・ツールも含めて、一つも例外はない。そもそもアメリカと中国とでは、商業的価値観が異なる。もしアメリカ人が世界をどう変えるかを常に考えているとしたら、中国人が考えているのは、今変わりつつある世界にいかに適応するかだ。
馬化騰が育った深圳は、中国で3番目にインターネット接続サービスを実施した都市である。その中で馬は、全国で最も早くインターネットを使い始めた数百人の一人であった。インターネット黎明期の中国において、馬は掲示板サイト「馬站(マージャン)」の管理人として名を馳せた。電話設置の初期費用が非常に高額だった時代に、馬は家に電話回線を4本引き、パソコンを8台置いた。リアルな生活では社交的ではない彼は、バーチャルな世界では非常にアクティブだったのだ。
テンセントが誕生した頃、インターネットの世界ではどのようなことが起きていたのか。マイクロソフトがWindows98を発表した1998年、ネットスケープとマイクロソフトのブラウザ争いが白熱化。アップルがミニマルなコンピュータiMacを発売したのもこの時期だ。
同年に全米で最も絶賛されたインターネットの英雄は、ヤフーの創業者である米国籍の華人青年ジェリー・ヤンだった。ヤンはタイム誌やビジネスウィーク誌の表紙を飾った。ヤンの奇跡に触発された中国のインターネット開拓者たちは、成長の道筋を探り当てようとしていた。まずヤフーの中国版クローンを作ったチームが、「捜狐(ソーフー)」という企業を立ち上げた。つづいて、世界最大の中国語サイトをめざす新浪網(シンランワン)が誕生。ネットイースも、電子メールシステムの販売からポータルサイトの運営へと舵を切った。これらは三巨頭となり、中国のインターネットはポータル時代を迎えた。
テンセントは長い間、有望な企業とは見なされてこなかった。その大きな理由は彼らが模倣したものにあった。すなわち、イスラエル人が開発し、後にアメリカ・オンライン社(AOL)に買収されたICQ社が、一度も黒字を実現できなかったことが影響していたのだ。
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