20世紀初頭、ヨーロッパではジャポニズム(西洋人による日本礼賛)が流行した。オペラ「ミカド」の舞台では、川上貞奴(さだやっこ)が着たキモノが称賛された。その流れの延長として、ヨーロッパでは室内着に「キモノ・ドレス」が取り入れられるようになっていく。
キモノ・ドレスの起源は、当時武家の奥方が着用していた小袖にある。身体を締め付ける現代の着物と違い、ゆったりと身体を泳がせることのできる流麗なキモノだ。それまでの数百年間、西洋の女性はコルセットに支配されてきた。キモノの登場は、コルセットなしでも美しく装えるという、新しい可能性を提示したのだ。
パリのデザイナー、ポール・ポワレはここに商機を見た。彼はキモノから着想した「キモノ・コート」などの作品を発表。異国趣味を取り入れた斬新なデザインが評判を呼び、ポワレは瞬く間にヨーロッパのファッションシーンを席巻した。彼は「ファッションの王様」と呼ばれるほどの存在になった。しかし、第一次大戦後はシャネルや「ショッキングピンク」を発明したスキャパレリの台頭により、「時代遅れの人」に。晩年は貧困のうちに亡くなった。
没後半世紀が経っても人気の衰えない、ガブリエル・ココ・シャネル。20世紀にシャネルが生み出したファッションは、彼女の波乱万丈な人生と切り離して考えることはできない。
孤児として修道院で育ったシャネルは、お針子としてキャリアをスタートさせた。後に愛人の援助で起業し、帽子ビジネスで成功を収める。シャネルはヨーロッパ一の大富豪や著名人たちと恋愛遍歴を重ね、7カ国にまたがるネットワークを築き上げていく。そして、女性の現実に即した「革命的デザイン」により、世界的デザイナーとして活躍した。戦後15年ほどの亡命期間を経て、70歳で奇跡のカムバック。亡くなる直前まで生涯を仕事に捧げた。
シャネルのファッションは、19世紀的な価値観と対峙する機能的なものばかりだ。バッグにショルダーチェーンをつけたのは両手を自由に使うため。キルティングはキズや汚れを目立たせないようにするためだ。また、本物と偽物をミックスしたコスチュームジュエリーには、本物至上主義の上流階級へのアンチテーゼが潜んでいる。
女性が自由意思を持って働き、自立し、自身の尊厳を保つことのできるファッション。シャネルのファッションアイテムは、人生を能動的に生きたいと願う女性たちの定番となっていった。
自分の望む人生を生き、望む男を恋人に選び、着たい服をデザインする。女性の経済的自立などあり得なかった時代に、シャネルは主体的な生き方を選び、それを最後まで貫いた。
クリスチャン・ディオールのキャリアが花開いたのは、第二次世界大戦後の1947年である。ディオールは、最初のコレクションで「コロール」(花冠)ラインを発表した。細く絞ったウエスト、たっぷり布地を使ったフレアスカートにより、「8」の字を作るラインである。戦時中は物資が統制され、服に使える生地はわずかなものだった。フェミニンで贅沢な布地を使ったディオールのウェアは、「ニュールック」と評され、女性服を一変させた。
ディオールはその後も半年ごとに、バーティカルライン、チューリップライン、Aラインなど、次々に新しいラインを作り続けた。新しいラインが登場するたびに、新しい服を購入する「モードサイクル」を作り上げたのが、ディオールだ。
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