東西ヨーロッパが別の道を歩みはじめるきっかけは、1346年以降ヨーロッパ中で猛威を振るった腺ペストすなわち黒死病だった。14世紀初頭、ヨーロッパを支配していたのは封建的な制度で、王は土地を所有し、軍務と引き換えに封建君主にそれを下賜していた。次に封建君主が農民に土地を分け与えると、農民はその見返りに幅広い無給労働に従事し、多くの貢納金と税金を納めなければならなかった。この制度は極めて収奪的で、富は多くの農民から少数の封建君主へ吸い上げられていたが、ペストによって生じた大幅な労働力不足はこうした封建的秩序の土台を揺るがすこととなった。イングランド政府は労働力不足を理由に賃金上昇を訴える農民に対して労働者規制法を可決し、賃金の上昇を防ごうとしたが、ワット・タイラーの乱などの農民一揆が起こり、その結果、封建的な労役が少しずつ減ってなくなり、包括的な労働市場が現れはじめた。このようにして、西欧では労働者は封建的な税金、貢納金、法規から解放され、成長する市場経済の鍵を握る存在になりつつあった。その一方でペスト禍を通じて東欧の地主は労働者の支配を徐々に強め、労働者は抑圧された農奴として西欧で必要とされる食物や農産物を育てていたにすぎず、制度の堕落につながった。
更にイングランドでは1688年に名誉革命がおこり、王と行政官の権力は制限され、経済制度を決定する権限が議会に移った。こうして経済制度もさらに包括的になり始めた。政府は意を決して財産権を強化し、その一つである特許権によってアイデアへの財産権が認められ、イノヴェーションが大きく刺激されることになった。産業革命が名誉革命の数十年後にイングランドで始まったのは偶然ではない。蒸気機関を完成させたワット、世界初の蒸気機関車を製作したトレヴィシック、紡績機の発明者アークライトなど偉大な発明家は、自分のアイデアから生じた経済的機会をとらえることができたし、自分の財産権が守られることを確信していた。また、自分のイノヴェーションの成果を売ったり使わせたりすることで利益をあげられる市場を利用できた。技術の進歩、事業の拡大や投資への意欲、技能や才能の有効利用といったことはすべて、イングランドで発達した包括的な政治・経済制度によって可能となっていたのである。
ただし、産業革命につながる多元的な体制は必然的に生まれたわけではない。ジェームズ二世がオレンジ公ウィリアムを破ることもありえたはずだし、商業的農民階級からさまざまな業種の製造業者、大西洋貿易業者にいたるまで、多様な利害関係者が絶対主義に対抗する連合を結成したことも偶然の産物である。
19世紀の日本がたどった制度発展の道筋からも、決定的な岐路と、制度的浮動の生む小さな相違との相互作用が明らかになる。日本は中国と同じく絶対主義に支配されていて、徳川家によって国際貿易を禁じる封建体制が敷かれていたが、1853年にペリー率いる四隻のアメリカ軍艦が江戸湾に入港し、アヘン戦争の際にイングランドが中国から勝ち取ったような貿易特権を要求されたことで事態が一変した。しかしながらこの決定的な岐路において、日本はまったく異なる役割を演じたのである。
中国には皇帝の絶対主義的支配に挑戦し、代わりとなる制度を推進できる者がいなかったのに対して、日本では有力な藩主に対する支配力はわずかしかなく、合衆国の脅威に対して徳川家の統治に対する反対勢力が結集し、明治維新という政治革命を引き起こしたのだ。こうした政治革命のおかげで、日本では包括的な政治制度と経済制度の発展が可能となり、その後の急速な成長の礎が築かれたのに対して、中国は絶対主義のもとで衰退していったのである。
包括的な政治・経済制度がひとりでに出現することはない。それは経済成長と政治的変化に抵抗する既存のエリートと、彼他の政治的・経済的権力を制限したいと望む人々のあいだの、大規模な争いの結果であることが多い。包括的制度が現れるのは、イギリスの名誉革命や北米におけるジェームズタウン植民地の創設といった決定的な岐路でのことだ。
つまり、一連の要因によって権力の座にあるエリートの支配力が弱まる一方、彼他に対抗するものの力が強まり、多元的社会を形成するためのインセンティブが生じるケースである。
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