現代の数ある西洋料理の中で、調理をほどこさずに生きたまま食べるのは牡蠣だけだと著者は言う。「牡蠣は、われわれが食べている料理の中で『自然な』食べ物に最も近い。『生のまま』と呼ぶのにふさわしい唯一の料理である」と。一部のキノコや海藻など若干の例外はあっても、われわれが食べている果物や野菜は――木から摘んだ「野生の」キイチゴでさえ――何世代もの非常に長い年月をかけて、人間が選択的に品種改良した結果である。その点、牡蠣は自然淘汰の産物であって、人の手はほとんど加えられていない。そして、われわれはその牡蠣を生きたまま食べる。
生の食べ物としてはかなり珍しいことに、牡蠣はふつう加熱調理によって駄目になる。牡蠣をベーコンで包んで串刺しにしたり、さまざまな種類のチーズをたっぷりと牡蠣にかけたり、オムレツに入れたりする。こうした試みは楽しみとしてはかまわないが、それによって美食術の最前線が前進することはまずないのである。
牡蠣は極端な例だとしても、生の食べ物が魅力的なのはそれが奇異だから、つまり文明以前の世界、いや人類が出現する以前の進化の段階へと逆戻りするように思われるからだ。人間固有の特異な習慣というのは比較的少ないが、調理はそのひとつである。ただし、調理が発明されたのは最近のことなのだ。
もちろんこれは、「調理」という言葉が何を意味するかで変わってくる。農耕は調理の一形態だと考える人もいる。ローマの詩人ウェルギリウスが「地を焼く」と言ったように、農耕とは焼けつく太陽に土くれをさらし、土をかまどにして種子を焼く行為だというのだ。また、狩猟社会では、獲物を仕留めた男たちが、獲物の胃の、なかば消化された内容物を報酬として食べることがよくある。これは一種の自然な原調理――知られているかぎり、加工された食物を食べる最古の例――である。マリネは、長時間漬けこめば、加熱したり燻製にしたりするのと同じくらいの変質作用がある。肉をつるして熟成させたり、放置して少し腐らせたりするのは、口当たりをよくし、消化しやすくするための加工法である。この方法は明らかに、火を使った調理より古い。ほかにも食べ物を変質させる驚くべき方法がたくさんある中で、燃える火による調理が特別扱いされるのはなぜだろう。
答えは、火で調理した食べ物の社会的効果にあるという。調理が歴史上の偉大な革命的発明のひとつと呼ばれるのにふさわしいのは、食べ物を変質させるからではなく、社会を変容させるからなのだ。
焚き火は、そのまわりで人びとが食事をともにするとき、親交の場を提供する。調理とは、たんに食べ物を煮炊きする方法ではなく、決まった時間に集団で食事することを中心にして社会を組織する方法なのである。調理によって新しく専門的な役割が生まれ、楽しみや義務が共有されるようになる。
3,400冊以上の要約が楽しめる