数学者であり、天文学者であるヨハネス・ケプラー(1571〜1630)の偉業を崇拝していた著者マンデルブロの子供の頃からの夢は、彼のような発見をすることだったという。ケプラーはある2つのものを結びつけた。それは、古代ギリシャの幾何学者が発見した「楕円」と、惑星運動には常に「変則(アノマリー)」が存在するという古代ギリシャの天文学者の誤解を結びつけることだった。つまり、彼は数学と天文学の知識を合わせることで、惑星運動は決して変則的に動いているのではなく、楕円軌道上にのっているということを発見したのだ。
著者は、後に自分に訪れる、新しい発見の瞬間を「ケプラー的瞬間」と表現し、「ラフネス(滑らかでなく不均一な形状)」の秩序と美に真摯に挑戦し続けることで、事実、多くの理論の確立を成し遂げていった。
その華やかしい業績をおさめるまでの道のりは、決して順風満帆なものではなかった。ワルシャワのユダヤ系の一家のもとに生まれたマンデルブロは、第二次世界大戦争中に少年時代を過ごし、点々と住む家を移動しながら、生きながらえていった。その間、両親に生きることの全てを学び、心から数学を愛していた数学者の叔父ショレムからもまた、多くの知を受け継いだ。
小さい頃から形と絵画が好きな少年であったが、彼の数学に対する特異な才能が見え出したのが、フランスの山間地チュールにあるリセ・エドモンド・ペリエ高校に通い始めた1939年のころだった。図書館に入り浸り、古い図形や図版がふんだんに入った数学の本を読みふける日々。「私は動物園に動物を集めるように頭の中に図形を蓄えていった」という。中等教育の締めくくりとなる試験、バカロレアでは、主席の「最優等(スマ)」の称号を獲得した。
しかし、戦争が激しくなり、チュールにいられなくなったことから、リヨンのリセ・デュ・パルクへ転校。ここで出会った、数学教授のコワサール先生は、エリート集団の教授陣の中でも抜きん出ており、マルデルブロは毎日、一日の半分はこの先生とともに過ごした。
先生が出す代数的(文字を使った数学)で、やたらと長く複雑な問題は、マルデルブロには幾何学的(図形を使った数学)に見えたという。図形を描き、それを幾つか変換することで調和のとれた答えが見いだせることに快感を覚えていた。彼は複雑な問題に対して、図形をイメージして幾何学的に考えることで、答えが導きだせるのだ。そして、1944年、ようやく戦争が終わった。
パリに安堵が広がる中、マンデルブロにとって大きな悩みは大学をどこにするかであった。エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)と、エコール・ポリテクニーク(理工科学校)は、どちらも科学分野ではフランスの最高峰にあたる。
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