著者は、現在の学校教育では学びの本質を知ることはできないと断言する。なぜなら、教える側である教師たちが学びの本質を理解していないからだ。
学びの本質とは、わからなかったことがわかることで生まれる「喜び」だ。人は、知らないことを知るプロセスを気持ちよく感じ、知的欲求によって成長する。
義務教育の目的は、凡庸なジェネラリストを量産することである。教師たちには、子どもの個性や才能を活かすことではなく、集団から外れようとする人を「オールB」人材に養成することが求められている。だから、学校での勉強がつまらないのは当然だ。突き抜けた天才の芽を摘んで平均化する義務教育は、立派な洗脳である。
「洗脳」のために、学校にはさまざまな「禁止」が存在する。「髪型は男子は短髪・女子はセミロングまで」「アルバイトの禁止」といった校則。「校長の話は直立不動で聞かなければならない」というような明文化されていない同調圧力も健在だ。ときには暴力まで用いて禁止を強要し、子どもたちの行動と思考の自由を奪っていく。そのようなやり方が、何十年も日本の義務教育のスタンダードとしてまかり通っている。
偏差値という指標は今も効力を持っている。偏差値がなくならないのは、子どもの一括管理がしやすいからだ。教える側の負担を減らすための怠慢といってもいい。偏差値という記号に評価を預けることは、子どもたちの多様な成長機会を奪うことに他ならない。
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