われわれの研究は商品の分析から始まる。なぜなら、資本主義的生産様式が支配的な社会の富は、「巨大な商品の集まり」として現前するからだ。
商品はまず、人間のなんらかの欲望を満足させるものだ。質と量の両面から見てみよう。質の面では、商品はその使用価値によって人間を満足させる。鉄や小麦、ダイヤモンドといった商品体それぞれが固有の価値をもつ。一方、量の面においては、時間と場所によって絶えず変動する関係がある。それは、ある商品の使用価値がほかの商品の使用価値と交換される量的関係、すなわち交換価値である。たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨やy量の絹と交換できる。
商品の交換関係では、商品の交換価値はその商品そのものの使用価値とまったくかかわりがない。ただ量の関係さえあればいいからだ。ここにおいて商品は労働生産物という属性のみをもつ。したがって、商品の価値の大きさを決めるのは、人間の労働量である。
商品の使用価値を生産するために必要な労働時間は、一つの同じ労働力と見なしうる「社会的平均労働力」として作用する。すなわち、商品の価値の比は労働時間の比と等しい。
また、商品は労働生産物であることから、商品と商品との社会的な関係のうちにのみ価値対象性が現われる、すなわち価値の担い手が現象する。
商品たちに共通の一つの価値形態が貨幣形態である。この貨幣形態はいかにして生成されるのであろうか。
最も単純な価値関係は、「x量の商品A=y量の商品B」と表現できる。これは、ある商品が自分の価値を表現しているわけではなく、ただ相対的に別の商品でしか表現されえないことを示す。これを相対的価値形態と呼ぶ。これは各商品のうちにひそむ異種の労働を等値することでもあり、等価形態、すなわち商品どうしの直接的交換可能性の形態である。
この二者関係は、「z量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=etc」と展開しうる。一つの商品の価値が無数の他の商品で表現されており、商品Aの価値を形成する労働は他のどの人間労働とも等しくなる。
これはすなわち、すべての商品の価値をただ一つの商品の価値で統一的に表せることにもつながる。この商品は一般的価値形態になる。諸商品はこの商品を軸に、互いに交換価値として関係させられる。
そして、一般的な社会的妥当性をかちえた特殊な商品が貨幣である。歴史的には、金がその一般的等価物として貨幣形態の機能を担ってきた。
商品は自分で市場に行くことはできない。そこには必ずその所持者がいる。かれらは、自分の商品を手放すことによって他人の商品を自分のものにする。これが成り立つには、私的所有者として互いの存在を認め合う必要がある。
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