渋沢栄一は、1840年2月13日(旧暦)、現在の埼玉県深谷市に父市郎右衛門(いちろうえもん)、母栄(えい)の子として生を享けた。生家は養蚕と藍玉で財を成し、名字帯刀を許された豪農であった。兄弟姉妹は10人以上いたようだが、兄たちが次々と死んでいき、男子として一人残った栄一は、跡取り息子として大切に育てられた。稲刈り後の冬の田んぼを走り回る元気な子で、容易に言うことを聞かず、お化けなどの迷信も信じず、強情な性格の持ち主だった。
市郎右衛門は質素倹約を旨としながらも、子弟の教育には気を配った。7歳になった頃には、栄一を従兄の尾高惇忠に師事させる。栄一は、中でも孔子の言語録『論語』に傾倒したという。こうして学問に励む一方で、養蚕と藍という渋沢一族に大きな財力をもたらした産業から、商売の基本も学んでいった。
ときは黒船来航で大騒ぎとなっている幕末である。学問の師である惇忠が、過激な尊王攘夷思想に染まっていくのを見て、栄一も幕府に対する不信感を募らせていった。
栄一は従兄の喜作とともに剣を学ぶ過程で尊王攘夷へと傾斜していく。栄一18歳のときには、惇忠の妹で幼なじみの千代と結婚するが、尊王攘夷熱は消えなかった。桜田門外の変や生麦事件など、攘夷の動きの影響を受け、大河内松平家の居城、高崎城を乗っ取って長州藩と連携することを画策する。計画は「暴挙である」という惇忠の弟の発言で実行直前に中止となったが、「予定通り決行していたら、間違いなく同志全員が討ち死にしていたはずだ」と栄一は後に述懐している。若気の至りだった。
決起を踏みとどまった栄一と喜作が頼ったのが、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜が継いだ一橋家において、家老並筆頭側用人を務める平岡円四郎だった。有能な人物の発掘の過程で、喜作たちを見いだし高く評価してくれていたのだ。しかし、平岡は一橋慶喜と同じ開国論者。それでも、一緒に高崎城襲撃を画策した同志を救うことになると考え、栄一と喜作は一橋家仕官を決意。これが人生の転機になった。
交渉や情報収集を主な仕事とする奥口番を命じられた栄一は、薩摩藩の動静を探る過程で西郷隆盛にも会っている。不思議な魅力の持ち主に相対し、栄一もすぐに打ち解けた。西郷が豚鍋を振る舞った際、仏教の不殺生の教えにより肉食をためらっている栄一に対し、
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