渋沢栄一は明治がはじまる28年前、武蔵国(現在の埼玉県深谷市)で豪農の家に生まれた。豪農といっても商売に力を入れており、渋沢は若いときから商売の経験があった。幼少期から知識欲が旺盛で、物覚えのよい子供だったようだ。
渋沢は、当時武蔵国を領有していた一橋家の家臣として成果をあげた。その後、第十五代将軍になった一橋慶喜の弟、徳川昭武のパリ万博行きに同行した。一年半の滞在の間に、渋沢は当時日本になかった銀行や株式会社にふれ、それが彼の事業観に大きな影響を与えることとなる。
幕府が倒れたために帰国した渋沢は、株式会社を参考にした商法会所を設立し、事業に成功した。そんな渋沢を、新政府が放っておくはずがない。渋沢は当初渋りながらも役人となり、3年半ほど近代日本の躍進に必要な制度や法律の整備に貢献した。だが、国家財政の方向性について大久保利通らと意見が合わず、辞任することになる。
民間の実業界に出た渋沢は、日本初の近代銀行である第一帝国銀行の設立を皮切りに、その後500に及ぶ会社の設立にかかわった。国を富ませるためには、官だけでなく民にも品位と才能のある人材が必要だと考えたのだ。
ピーター・ドラッカーは、渋沢栄一に遅れること約70年、1909年にオーストリアでユダヤ系の家庭に生まれた。ドラッカーは、第一次世界大戦後で職が見つからないオーストリアを離れ、ドイツで働く。そして21歳のとき、フランクフルト大学において国際法に関する論文で博士号を取得している。
1933年、ドラッカーは自分が書いた論文がナチスの怒りを買うことを確信し、ロンドンに移り銀行に就職した。1937年にはアメリカに移住。1939年に出版した『「経済人」の終わり』がイギリス首相ウィンストン・チャーチルに絶賛される。その後、大学で政治・経済・哲学・統計などを教えた。
1942年に『産業人の未来』を出版すると、これがゼネラル・モーターズ(GM)の副会長の目にとまった。その後1年半にわたりGMを調査し、その結果をもとにしたドラッカーの著書『企業とは何か』が、世界中の大企業における組織改革ブームの火つけ役となった。
1949年には、ニューヨーク大学のマネジメント研究科の教授に就任。1954年に出版された『現代の経営』により、ドラッカーはマネジメントの発明者、マネジメントの父と呼ばれるようになる。
1964年の『創造する経営者』、続く1969年の『断絶の時代』の出版を経て、1971年にカリフォルニア州クレアモント大学マネジメント研究科の教授に就任。1974年にマネジメントの集大成として『マネジメント 課題、責任、実践』を出版した。
2005年にドラッカーが他界した際は、世界中のメディアが「経営の神様」「卓越した経営思想家」「知の巨人」「現代社会最高の哲人」といった言葉で、その偉業を称えた。
渋沢栄一は西洋のカンパニーという仕組みを使って、新しい事業を次々に生みだし、社会的イノベーションを起こした。一方ドラッカーは、マネジメントという言葉になじみのなかった時代に、人類史上はじめてマネジメントという分野を体系化した。二人はなぜ、新しい未来を創造できたのだろうか。
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