江副には母親が3人いた。浮気癖のある父・良之は、妻を二転三転させ、その度に江副をあちこちへと移住させた。戦時中だったため、栄養失調と診断されたこともある。そのように劣悪な幼少期の環境がハングリーな人格を形成したと言ってもいい。
大阪で育ち、小学校の成績が優秀だった江副は、灘と並ぶ名門の甲南中学・高校へと進学する。高校ではアダム・スミスの『国富論』の講義を受け、合理主義者・江副の心に資本主義の根本原理が植え付けられた。労働組合が隆盛していた当時、マルクス主義の洗礼をまったく受けなかった江副の存在は奇跡に近かった。
その後東大に進んだ江副は、東大の学生新聞の広告取りのアルバイトを始めた。とある企業の就職説明会案内掲載で成功を収めたことから、採用をめぐる「時代の波」を捉える。朝鮮戦争特需による日本経済の復活を背景に、コネ入社が終焉を告げ、実力を重視する企業側の需要と、働く会社を自ら決めたい学生側の気運を、うまくマッチングするものだった。
1960年、江副は新聞広告業の延長で「株式会社大学広告」を立ち上げる。その後「企業への招待」という広告だけの本を無料で学生に配り、企業からの広告収入だけで利益を得るという、前代未聞のビジネスモデルを確立させた江副は、破竹の勢いで会社を巨大化させていく。1963年には社名を「日本リクルートセンター」に変更。「企業への招待」によって主要企業の人事担当者と密接な関係を結び、採用情報を一手に担うようになったリクルートは「日本株式会社の人事部」になっていた。
江副は才能を持つ人材を見出し、その人を生かすマネジメントの天才だった。社員のモチベーションを高めることに長けていた。
江副と社員のやりとりはこうだ。社員が常々「やってみたい」とか不満に思っている事柄について「君はどうしたいの?」と聞く。戸惑いながらも答える社員に対して我慢強く誘導していき、最後には「じゃあそれ、君がやってよ」と言い、不満ばかりの評論家を当事者に変えてしまうのだ。
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