バラク・オバマはハワイ州ホノルルに生まれ、リベラルな白人の母と祖父母から愛情をたっぷり受けて成長した。地元の名門私立高校に進学すると、裕福な家庭で生まれ育った白人の同級生たちに囲まれて、人種や階級について意識をし始める。大学卒業後は、コミュニティ・オーガナイザーとして労働者階級の住む地域で住民が自分たちで問題を解決できるようサポートをするうちに、自然に政治に興味を持つようになる。
結婚後、バラク・オバマは弁護士として法律事務所に勤務しながら、シカゴ大学のロースクールで教鞭をとった。有権者登録を推進するプロジェクトに参加するなど、社会的な活動にも力を注いだ。仕事にも私生活にも不満のない充実した人生を送っていたオバマだったが、1995年にイリノイ州の連邦下院議員への出馬が持ち上がる。
当時の議員が性犯罪疑惑などで起訴されたため、補欠選挙が執り行われることとなった。そこに出馬したのが州上院議員のアリス・パーマーであった。パーマーはアフリカ系アメリカ人の元教師で、堅実な経歴を持ち、地域に深く根ざす人物だ。パーマーはオバマとの共通の友人を通じてオバマが参加したプロジェクトを知り、選挙活動の手伝いを依頼した。ともに選挙活動を行ううちに、パーマーは空いた自分の州上院議員の席を目指して出馬してはどうかとオバマに持ちかけたのだ。パーマーの支援もあり、出馬すれば当選の確率は低くない見通しだった。州議会の本会議は1年で数週間しか開かれず、議員を務めながら教壇に立ち、弁護士業を続けることも可能だとオバマは判断した。
これがオバマの政治活動の第一歩となった。
パーマーの土壇場での裏切りもありながら、オバマは州上院議員に当選し、政治家としてのキャリアをスタートさせた。議員の仕事は順調だったが、第一子であるマリアが産まれたあと、家庭内は多忙を極めた。妻、ミシェルと言い合いになることも多かったが、このタイミングでオバマはある選択をする。連邦下院議員への立候補だ。そしてこの選択は大きな失敗となった。選挙は大敗を喫した。オバマは40歳を前に大きな挫折を経験した。
しかし、オバマは政界から身を引くことはなかった。それは州上院議員に当選してから恒例となっていた地元選挙区訪問の際の出来事による。イリノイ州南部を訪問したオバマは、黒人の弁護士など浮いてしまうのではと周囲に心配されていた。ところが、オバマがそこで目にした光景はなじみあるものばかりで、そこには同じ価値観、同じ夢があった。オバマの選挙区はイリノイ州の大都市であるシカゴだが、シカゴと州南部の人々が互いに理解し合えない限り、政治は変わることができないとオバマは悟った。黒人対白人、移民対地元民というような、ステレオタイプな構図を煽るほうが、政治家にとっては簡単なのだ。
「アメリカが分断されている」という前提を覆すことができれば、権力者は異なる集団を争わせることができなくなる。「どちら側が勝ったか」にこだわることなく、全員にとっての共通の目的達成が主眼におかれるだろう。それこそが自分の追求してきたことだとオバマは気づく。
そしてオバマは大敗の記憶も新しいまま、連邦上院議員への挑戦を決意し、見事、当選を果たす。
オバマが連邦上院議員としてキャリアを積むなか、ひとつの大きな事件が起きた。2005年にアメリカ南岸部を襲った、ハリケーン・カトリーナだ。ハリケーンによる被害は甚大で、ニューオーリンズの大部分は水没した。この影響で貧困者層は大きな被害を受けたが、それはすでに悲惨だった貧困者層をめぐる状況を、ハリケーンが浮き彫りにしたにすぎなかった。黒人がその大半を占める貧困者層は、貯蓄もなく、保険にも入れず、社会の周縁でぎりぎりの生活をしていた。オバマがどんなに状況を変えようとしても、彼らの生活は何も変わっておらず、また、国の政治もまったく変わっていないのだということにオバマは気づかされた。オバマはこれを契機に、それまで控えていた全国メディアへの露出を増やし、連邦上院で唯一のアフリカ系アメリカ人として発言を始めた。
さらに、イラク訪問で状況の悪化を目の当たりにすることで、オバマはこの国全体の、早急な変化の必要性を強く感じることになる。連邦上院議員としてやれることには限界がある。自分の信念を実現するため、自分がどんな役割を担うべきなのか、オバマは考え始めた。
しかし、オバマ自身の意志よりも先に、周囲の目が変わっていった。オバマは訪れる先々で「次期大統領」と呼ばれ、メディアもそれを煽り立てた。オバマは徐々に大統領選出馬を現実のものとして考え始める。
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