「いい問いの立て方」を考えるために、まずは「いい問い」とは何かというテーマと向き合ってみよう。冷淡な言い方をすれば、何が「いい問い」なのかは場合による。不都合を解消したい場面では解決する方策を得る視点が、ワークショップでは参加者が必死になって考えたり議論が盛り上がったりするようなお題が、それぞれ「いい問い」となる。だが本書では場面を限定せず、あらゆる場面に共通する「問い」について考えてみたい。
さまざまな場面における問いを並列的に眺めてみると、それぞれの問いそのものよりも、問いの在り方、形式に意識が向けられる。そして答えが「ある」問いと答えが「ない」問いに気づかされる。人生には、とうてい正解などない「問い」があふれている。そもそも人生そのものが、正しい答えなど見つけられない「問い」だ。生きているということは、考えることそのものといえる。そう考えると、答えがあるかないかという分類は些細なことであり、我々が「問い」として存在している事実こそが重要である。
世の中には「……のときはこうしたほうがいい」というように、問いと同じ数だけの意見がある。しかし断定的な正しい答えを探し求めたり、自分の意見の正しさに過度に固執したりすることは、幼稚な態度である。問いがあるから考えや意見があるのであって、「そもそもなぜその問いがあるのか」と問う問いこそが、物事の大本に迫る「いい問い」につながる。それは場面や条件に依存せず、どのような問いにも共通して当てはまる本質的な問いだ。すなわち「いい問い」とは、「なぜその問いがあるのか」という根源的な存在についてまで考えられた、本質的な問いのことなのである。
あるテーマについて意見交換をすると、意見が対立してなかなか合意がとれず、平行線をたどることがある。しかし両者の意見が前提としている「そもそも」の観念の領域まで踏み込んで議論をすると、両者が共有している考え方が見いだされ、噛み合った話ができるようになる。安易に「人それぞれ」と言い出すと、建設的な議論が成り立たなくなってしまうが、共通している部分は間違いなく存在する。それを対象とするからこそ、「本質的」な「いい問い」となるのだ。
ある問いに対して、直接的に応答したり意見を考えたりするのではなく、「その問いがなぜ生じたか」という理由を、「問いを問う」という形式に従って考えることが大事である。そのためにも問いや意見、考えの前提にある「観念」を問うことが、本質的な問いに接近するうえでは必要だ。
さらに人間観や仕事観、社会観といった観念は、広義の「歴史」という、さらなる前提から生じている。私たちは生まれ落ちた国、地域の風土や慣習、育った環境や受けた教育なども含めて、ありとあらゆる要因を連鎖、重層化、相関させながら、自分の考えを形成している。私たちは問いを「持って」いるのではなく、問いの「内に在る」のである。私たちは歴史を「知って」いるというよりも、そもそも歴史の内に組み込まれた存在であり、むしろ歴史そのもの、言葉そのものだと自覚すべきだ。
自分の歴史の前提を考えると、歴史から引いた立ち位置に立つことが可能となる。たとえば日本で生まれて日本語で考える「私」の立ち位置を客観視したいのであれば
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