科学技術の発展とともに、経済や社会の構造は大きく様変わりし、かつて常識だったことが通用しない時代に突入した。そこにコロナ禍である。自ら考え、判断し、行動できる「自律」が何より求められるようになった。はたして日本の学校教育は、こうした時代の変化に合わせてアップデートできているだろうか。
日本財団による「18歳意識調査」を紐解くと、日本の若者は「自分が社会や国を変えることのできる存在だ」と思っていない。そのため、社会に対して「責任を負う」という意識がなく、社会課題への関心も低い。
なぜ日本の若者には、当事者意識が欠如しているのだろうか。その原因は、日本の社会全体がサービス産業化したことにある。自分で考えることなく、過剰なサービスを受けて育った子どもには、自分でなんとかしようという思考回路が生まれない。課題の解決に必要な「より良いサービス」を求めるだけで、満足がいかなければ「サービスの質」に文句を言うばかりだ。
子どもの自律性を養うことは、文部科学省の上位目標でもある。しかしそれが教育の現場で実践されているかというと、残念ながらそうとは言えない。本来であれば、知育(勉強)・徳育(道徳)・体育でバランスを取るべきにもかかわらず、現状の教育内容は知育に偏り、学校はペーパーテストの点数を上げることに躍起になっている。手段が目的化しているのが、教育現場の現状なのだ。
点数アップが学校教育の目的だと勘違いすると、子どもにつまずいたところを繰り返し復習するよう「命令」してしまう。本来なら子ども自身が「ここはよく理解できていないからもう一度勉強しておこう」と判断し、必要に応じて復習すべきにもかかわらずだ。
学力向上が目的化すると、「勉強時間を増やそう」という勘違いが生まれる。OECD(経済協力開発機構)の学習到達度調査で、フィンランドに大きく差をつけられたとき、日本の学校は宿題を増やして挽回した。しかし当のフィンランドでは宿題は多くないし、放課後の塾通いもない。子どもの主体性にまかせ、少ない学習時間で結果を出している。
子どもの自律と学力向上を両立させるキーワードは、「心理的安全性」と「メタ認知能力」だ。これらをもとに、いまいちど教育の本質に立ち返ってみよう。
「心理的安全性」とは、文字通り「心理的に安全な状態」を意味する。その反対は「心理的危険」だ。脳はある程度のストレスを許容できるようになっているが、ストレスが許容量を上回ると扁桃体が過剰活性を起こし、脳内に「緊急事態宣言」が発令される。この状態を「心理的危険状態」という。
心理的危険状態になると、人は戦闘モードに入るか逃走モードに入る。すると体は危険回避のため、必要な臓器に血流を集中しようとし、人の思考や感情抑制などを司る前頭前皮質に血液が回らなくなってしまう。
身近に自殺者が出ると、「なんであの人が」「自殺するような人に見えなかった」などという感想をよく耳にするが、それはその人の「平時」の人物像でしかない。
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