何かを気にしている人に、気にするなと言うのは酷な話だ。気にしてしまうのはどうしようもないことだし、「人の気も知らないで」と怒り出す人もいるかもしれない。
人は多くの場面で、写真を撮るように、一部分だけを切り取って記憶するクセがある。被写体に何を選ぶかは、その人次第だ。運動会のかけっこであれば、スタート前の緊張している子を被写体に選ぶ人もいるし、一等でゴールする子を切り取る人もいる。写すべきではない被写体にシャッターを切り、心に焼きつけてしまう人もいる。みじめな自分や怒っている自分、屈辱を受けた瞬間にシャッターを切って、人を恨み続ける人もいるだろう。
人生には、記憶に留めるべきカットもあれば、そうでない情景もある。自分を高め、他人を安心させることは気にしたほうがいいが、気にしても自分が向上しないこと、自分をみじめにすること、自分の力ではどうしようもないことはさっさと忘れてしまったほうがいい。
道徳は「いい人になりましょう」と説くが、仏教は「心おだやかな境地を目指すこと」を説いている。心おだやかな境地を目指したい心を菩提心(ぼだいしん)という。菩提心を土台として具体的な生活方法を説く「戒」は、自主的に守ろうとする項目だ。戒を破ったところで罰せられることはない。
「十善戒」は、些細なことが気になり、心おだやかでいられない人のための「遠ざかったほうがいい悪いことの十カ条」である。むやみな殺生、時間を含めた盗み、男女のよこしまな関係、嘘、きれいごと、乱暴な言葉づかい、人の悪口、物惜しみ、怒り、誤った見方の10種だ。つまり、心おだやかになるために必要なのは、できるだけ悪いことから遠ざかることであって、積極的に何かをすることではないのだ。
誰かからの評価ばかり気にすると、心おだやかではいられない。いい人、悪い人という価値観から離れ、心おだやかな生き方を目指したいものだ。
人づき合いをすれば、相手の気持ちが気にかかる。だが、相手にどう思われているかを極端に気にする人は、よく思われたい以上に、悪く思われたくないのではないだろうか。
もちろん、人に嫌われたいと思う人はいないだろう。しかし、自分をどう思うかは、相手の心の問題であり、コントロールすることはできない。それをコントロールしようとすると、媚びへつらい、ユーモアのある自分をアピールするなどして、「いい子」になろうとする。その結果、疲れてしまうのだ。
少年だったころの著者も、いい子になろうとしていた。しかし、僧侶というやりがいを見つけてからは、人から嫌われないようにしたり、無理に好かれる努力をしたりすることもなくなった。人からの評価よりも自分がやっていることに夢中だからだ。
人からどう思われているかが気になる人は、自分のやりたいことを見つけて、その道で努力するといい。
人はそれぞれ違った価値観を持っている。家族でさえそうなのだから、それ以外の人とは違って当たり前だ。
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