最近になって、日本人の「読解力」が落ちている。読解力という言葉を文字通り解釈するならば、「読んで理解する力」「読み解く力」ということになる。しかし、本やインターネットを通してたくさんの情報に触れている人は読解力が高いかというと、必ずしもそうとは言い切れない。むしろ、情報にたくさん触れれば触れるほど、自分の考えや先入観に凝り固まり、都合のいいものだけを受け容れて、他者の異なる意見を聞き入れようとしなくなる人が増えている。最近目立つ、陰謀論や陰謀史観を支持する人が、その典型的な例だ。
「読解力」とは、できる限り偏見なく情報を受け入れ、対象を認識し理解することであり、テキストに対しては文意を理解して行間を読み、人間に対しては相手の主張や立場を理解したうえで、相手の論理で考える「思考の幅」を持つことだ。
新井紀子著『AIvs.教科書が読めない子どもたち』では、以下のように主張されている。AIは演算処理やデータ検索に関して人間よりはるかに高い能力を持っているものの、言葉の意味を理解する読解力はない。だから、人間がAIより優位に立つためには、読解力が必要となる。この先、様々な仕事がAIに取って代わられるとしても、AIの苦手な「読解力を必要とする仕事」に関しては、人間の専門領域となるため、読解力こそが仕事でお金を稼ぐために必要な能力となるだろう。
ところが、中高生をテストしてみると、簡単な文章の意味さえも読み取れないほど読解力が低下していることが明らかになった。このままでは、多くの人が失業し、深刻な不況に直面する可能性がある。日本人一人ひとりが、意識的に読解力を高めていくことが肝要だ。
日本は、同調圧力が高く、異質な考え方が排除されやすい文化的土壌がある。さらに、ネットやSNSで同じ価値観の人たちだけの間でコミュニケーションが行われるようになると、異質な意見に触れる機会が減ってしまう。読解力を高めるために有効なのは、自分とは異質な人物と付き合うことである。立場や思想などが異なる他者の予想外の反応や考え方に触れることで、相手がそのような振る舞いをする理由や考え方、行動のパターンを理解しようとする気持ちが生まれ、適切に対応できるようになる。これが「読解力」の本質だ。これは外交において、他国の動きの価値観や行動基準を理解するために「内在的論理」を知ることと同じだ。とはいえ、自分と異なる人と付き合うのは簡単にできることではない。そこで、効果的なのは、優れた文学作品を読むことだ。小説の中では、善人や悪人、成功者や犯罪者などさまざまな人物の内面が深い洞察に基づいて表現されている。文学を通して現実では出会えない異質な人格や状況にも触れることができ、適切な対応を可能にする読解力が鍛えられるのだ。
読解力とは「読む」「書く」「聞く」「話す」という4つの力の集合体であり、コミュニケーションそのものといえる。なかでも、最も重要なのが「読む力」だ。読んで理解できないことは、聞いてもわからないし、書くことも話すこともできない。
読解力の向上に、まず必要となるのは、論理的に文章を解読するロジカル・リーディングである。演繹法と帰納法、接続詞の使い方といった、文章を構成する論理をしっかりと読み解くことで理解が深まるが、そのためには数学力=論理力が不可欠だ。
読解力をさらに高めるために必要なのが、文章を批判的に解読するクリティカル・リーディングである。クリティカルの名詞、クリティシズムは、語源を辿ると「対象に対する価値判断や洞察」を意味することがわかる。日本語の批判という言葉は、もともと江戸時代に歌舞伎の役者に文句をつけることを意味している。否定的なニュアンスが強いが、先入観を取り払って、まっさらな状態で客観的に対象と向き合い、その価値や真理を深く考えるのが本来のクリティシズムだ。
クリティカルにものを捉え、考えるためには、高い場所に登って全体を見下ろすことで位置関係を把握するように、自分の主観や思い込みから離れた広い視野、メタ認識によって全体像を把握する必要がある。対象から少し距離をおいて客観的に捉えることで、自分の考え方が絶対的ではなく、物事にはさまざまな違う見え方があることを理解できるようになるだろう。
しかし、人間には誰しも「主観」があり、まっさらにものを見ることができる人はいない。クリティカルな読書をするためには、誰もが何かしらの色眼鏡で見てしまうのを避けられないと認識した上で、自分の色眼鏡がどのような色で染まっている可能性があるのかを知っておくことだ。相手の考えを知るためには、相手と同じ色眼鏡を掛ければよい。読書であれば、作者あるいは作中の登場人物の色眼鏡を掛けることにより、作中の人物の行動や心理を鮮明に理解できるようになるだろう。
読解力の最終目標は、文章に書かれていない意図や流れを読み取り、行間を読めるようになることだ。著者が従事していた外交のインテリジェンスの仕事とは、まさに、外交的な文書や発言から、テキストに明示されていない隠されたメッセージや情報を汲み取るという、行間を読む作業であった。
行間を読む作業は、論文や評論、ノンフィクションのように論理的に構成されたものよりも、小説などのフィクションなどの純文学に必要とされる。人によっては学術書や専門書よりも文学作品を低く見る傾向もあるが、論理的思考力と語彙力があればだれでも理解可能な学術書よりも、行間を読まなければ深い理解に到達できない文学作品を読む作業のほうが、高度な作業だといえる。
著者がゼミや勉強会などで読書の仕方を教える際、必ず、テキストの「要約」と「敷衍」を参加者にやってもらうという。要約は、テキストのなかのポイントとなる文章を抜き出し、著者が主張したいことや論理構成をつかんで、それに従って再構成する。一方、敷衍とは、文章の趣旨に従って、自分の頭で噛み砕き、より詳しく、わかりやすく、自分の言葉で表現することである。そのためには、まずしっかりと要約ができていることが前提となり、その上で、大事なポイントを別の表現で置き換え、行間を読む力を用いて、論旨を展開していかなければならない。読解力が不足し、行間を読めなければ、敷衍をすることもできない。まずしっかりとした「要約力」を身につけ、その上で「敷衍力」を身につけることで、結果的に読解力が高まるのだ。そのためのテキストとしてお勧めできるのが、文章が平易で読みやすく、現代にも共通する普遍的なテーマが取り上げられている、夏目漱石の小説である。
読解力を身につけるためのクリティカルな読書の習慣は、できるだけ早い段階で、中学、高校のときに学ぶことが望ましい。著者も、学習塾の先生の影響で、国内外の文学作品へ興味を持ったという。一流の文学作品には、品行方正な人物だけではなく、悪人も多く登場し、人間の弱さや悪が描かれている。文学を通してそれらに触れ、不条理や悪を疑似体験することで、免疫ができ、一種のワクチンとなるだけでなく、自分とは異質な異物や毒を受け入れる力を養うことともなるだろう。
著者は、青山学院横浜英和中学高等学校の中学三年生一四名に対して、三浦綾子の『塩狩峠』をテーマにした集中講義を行った。鉄道事故の際、自分の身を犠牲にして他者の命を救った実話を元にした小説である。著者は子供の頃からキリスト教に影響され、正しく生きていると考えていたが、中学生の頃、成績優秀な友人が自殺したと知った時に、受験のライバルが一人減ってホッとした気持ちがあることに気づき、自分の中に悪が存在していることを知って慄く経験をした。ちょうどその頃、『塩狩峠』を読んで、モデルとなった人物が敬虔なキリスト教徒として命を投げ出したことに感銘を覚え、自分の中の悪に向き合えるようになった。
キリスト教だけでなく、さまざまな学びにおいて、人間は読書体験以上に、本やテキストによって何かしらの変容を遂げた生身の人間から影響を受け、「感化」される影響のほうがはるかに大きい。集中講義では『塩狩峠』を題材として、感化の重要性を伝えること、さらに読解力について伝えることがテーマとなった。
著者は講義において、受講生と対話しつつ以下のような点について強調し、伝えている。
作者の意図や小説において主張されていることが完全に正しいわけではなく、不自然なこともある。また、描かれた時代の背景が現代とは違うことも加味しなければならない。作品を鵜呑みにするのではなく、距離を置いて冷静に分析した上で判断することや、批判的態度が重要だ。
良い本だと思ったら、最低3回は読むようにしよう。1回目はざっと目を通して内容をつかみ、2回目は時間をかけて精読し、要点を押さえた上で、3回目にもう一度全体を読む。この三段階で、本全体を理解できるようになるのだ。コミュニケーションでは、読む力が基礎となるため、とにかくたくさん本を読み、さまざまな文章にふれることで、コミュニケーション力全体を高めることができる。
優れた小説ほど深く広いため、人によって感じ方、受け止め方は変わる。どれが正解ということはないが、だからといってなんとなくこう思ったではなく、自分がどう感じたかをしっかり理由に基づいて説明できなければならない。『塩狩峠』の自己犠牲的な側面を賛美するだけでなく、それを美談にすることに疑問を投げかけるような批判的な意見があっても良い。感想をまとめるときには、共感ばかりでは一面的になりがちなので、違和感を覚えたことも考えれば、作品をより深く理解できるようになるだろう。
『塩狩峠』を読むことは、受験勉強には直接関係がなく、実用性には乏しい。しかし、読解力を鍛えて言葉の深い理解をできるようになれば、国語だけでなくすべての教科の学力を上げることに繋がるだろう。理系に進む人も小説などに触れて感性の幅を広げて国語力を身につけるのが良く、一方で文系に進む人も数学力を高めるのが良い。いきなり専門的な知識や情報を身につけようとするのではなく、まずは広く浅く、しっかりとした教養の土台を作り、その上で専門分野を深く学べば、社会に出てから役に立つ応用力や対応力を身につけられるようになるだろう。
イエスの言葉には「受けるよりは、与えるほうが幸いである」というものがあるが、環境に恵まれたことを卑下する必要はなく、才能や能力を社会に役立てて、「人に与えることができる人」になるために勉強、仕事をする。そのように生きられれば、いい人生を送れるようになるだろう。
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