若いうちは、自分がどう生きたいのかわからず、地図も持たずに右往左往しているような状態だ。地図のない旅がずっと続くと疲れてしまう。そんなときに試してほしいのが、大量の読書経験を積むことだ。読書を続けていると、ある日突然、自分自身がグーグルマップになったような感覚が得られる。人工衛星から地球を見下ろすように、どこをどう通れば自分の望む場所へ到達できるか、おもしろいように見えてくるのだ。大量の読書経験は世界の見え方を変えてくれる。「教養を積む」とは、そういうことだ。
私たちの人生は試練だらけだ。しかし、頭の中に「教養」がクモの巣のように張り巡らされていれば、突然そのネットワークに電流が走ってあらゆる知恵・知識・思考が1つにまとまり、課題の最適解が見出されることがある。この「教養のクモの巣」は「よい社会とは何か」「幸福とは何か」といった哲学的なテーマについて考えるときも有効だ。
将棋の一流棋士や天才的な研究者が瞬間的に次の一手や解決策をひらめくことがあるのは、膨大な知識をかたまりとして脳内に蓄えているからだ。
もちろん、むやみに知識をため込めばいいというわけではない。大切なのは「クモの巣」、すなわち知のネットワークを構築することだ。知識は問題を解決するために使う、道具である。知識のネットワーク化に重要なのは、自分自身の興味や問題意識なのだ。
どれだけ読書を積んでも、豊かな実体験にはかなわないという考えがある。たしかに、人は自分の経験からこそ多くを学び取るものだ。しかし、読書もまたひとつの豊かな経験である。
人間が直接的に経験できることには限りがある。人の経験も思考も、多かれ少なかれ自分が置かれた環境の制約を受けている。世界中を飛び回っている人でも、この世のすべてを見聞きすることは不可能だ。読書によって直接的な経験の世界を広げることができる。
また、この「直接経験」は貴重だが、時に視野を狭めてしまうこともある。自分が経験したことをすべての人に当てはまるかのように、過度に一般化してしまうことを「一般化のワナ」と呼ぶ。一般化のワナは日常のいたるところに潜んでいる。読書によって自分の経験を超えた世界を広く知ることで、安易な一般化を減らせるようになるだろう。読書経験を積めば積むほど、この世には知らないことが山ほどあることにも気づいていくはずだ。
では、読書ではなくインターネットから情報を得るのはどうだろうか。
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