グローバル経済は、市場を媒介とし、顔の見えない「不特定多数」を対象とするシステムである。そこでは複雑な価値の交換は成り立ちにくく、結果として「お金」という単一の価値へと収斂していく。同じモノなら安ければ安いほどいいというわけだ。
一方、「私」と「あなた」のような顔の見える関係なら、必ずしもそうではない。世の中一般に受け入れられる価値ではなかったとしても、「私」がそこに価値を認めるのであれば、「あなた」との間で交換が成り立つ。
著者が経営している西国分寺のカフェ「クルミドコーヒー」では、コーヒーは一杯650円。すぐそばにあるコーヒーチェーンなら、その3分の1の値段で飲める。それでも、そこに価値を認めてくれる「私」がいるから、より複雑な価値のキャッチボールができている。
とはいえ、カフェを経営するには一定の規模の「私」が必要だ。内輪の関係だけの「特定少数」ではビジネスが立ち行かない。だから「特定多数」、すなわち一つの事業を支えられるくらいの規模のお客さんと、お金に換算できないさまざまな価値の交換が可能になるような関係を築く必要がある。
不特定多数ではない、もう少し複雑な情報のやり取りが可能な人たち。人やネットを通じて、直接的・間接的に声が届く距離にある人たち。そうした層を一定の規模で形成することが、特定多数のビジネスを成り立たせる前提になる。
「特定多数」とは、どのくらいの規模か。クルミドコーヒーでは、年間の来店者数などから、5000人ほどと類推される。経営の収支が合うようになってきたのは、この数字が3000人を超えた辺りからだ。一つのカフェを支えるには、それくらいの「ファン」を獲得できればいいということになる。
そうした空間で、お金に換算できない価値が行き交うようにするために必要なのは、身体性を伴う直接的で濃いコミュニケーションだ。「おいしい」「気持ちいい」といった、価格を超えた価値を提供できることもまた必要である。
経済学によれば、それぞれの主体は、自己の利益を常に最大化させるべく行動する。その前提をお店とお客さんの関係にあてはめると、次のようになる。
お客さんは、同じコーヒーとケーキを食べるならできるだけ安く済ませたい。もしくは同じ額を払うのであれば、できるだけ多くのものを手に入れたいと考える。
一方お店は、同じ金額を受け取るのであれば、コストはできるだけ小さくしたい。そのために仕入れやオペレーションを工夫したり、より単価の高いメニューを用意したりする。
これは、相互に相手をテイク(利用)し尽そうという態度だ。
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