15世紀半ばまで、馬、車輪、文字という紀元前3500年頃からの情報拡散の手段と速度は進歩しなかった。権力者たちは主要な情報を独占し続けたが、ヨーロッパでは10世紀以降、増加の一途をたどっていた商人たちがコミュニケーションを取るために、これまで以上に自由な移動と情報のやりとりを必要とした。
商人たちは、私信や政治情報を運ぶ独自の郵便ネットワークをもとに、情報の配信を専門にする最初の定期便、アッヴィージを生み出す。これはのちの新聞の原型となるもので、情報が販売されるようになった大きな変化であった。
これらのネットワークで伝えられたのはただのニュースだけではない。嘘をつくため、大衆を扇動するため、情報を操作するためにも利用された。この世の終わりを告げる手紙で人々は混乱し、フェイクニュースを信じた農民や職人、市民たちが暴動を起こした。
15世紀に入ると、ドイツの街では中国発の大型技術革新、金属活字を使う活版印刷の登場で情報伝達の方法が数千年ぶりに変化した。一方で、その技術を通信手段には用いなかった中国では、老朽化した郵便システムが崩壊した。国教会や王室の検閲が厳しかったイングランドやフランスでも、印刷技術や出版物の登場、普及が遅れていた。
ヨーロッパとアメリカでジャーナリストが本格的な職業になったのは18世紀初頭からだ。
ジャーナリストはヨーロッパ市場を支配する商人が活躍した経済大国、ネーデルラントで誕生した。18世紀後半のアムステルダムでは定期刊行物の出版や政治、社会について自由に語ることができた。
現在のドイツと重なるプロイセン王国では、新聞はなお厳しく管理されていたが、それでも少し批判的な意見を載せる定期刊行物は増え続けた。ただし、国内政治はあまり扱っておらず、国際情勢や雑多なニュースが中心であった。ルイ14世の絶対王政下にあったフランスでは、事前に許可された書籍と新聞しか刊行できないという規制があり、王室検閲官が目を光らせていた。「ジャーナリスト」という言葉は1702年からフランス語で用いられるようになったが、当時は権力の手先を意味する否定的なものだった。
イギリスが全権を掌握していた北米での出版規制は厳しかった。しかし、『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』を創刊したドイツ出身の印刷業者が「扇動的な中傷」で逮捕された際に、裁判所が報道の自由を認めたため、表現の自由が大勝利を収めるに至った。
13州の植民地がアメリカ独立戦争に勝利しアメリカの誕生が承認されると新聞の数は増えていった。匿名という権利や、郵便配達路線の整備に付随したコミュニケーション・ネットワークの重要性も高まった。
1791年、ヴァージニア州の下院議員だったジェームズ・マディソンは、言論の自由と報道の自由を組み合わせた憲法修正第一条(「議会は言論または報道の自由を制限する法律を制定してはならない」)を提出し、可決させた。現在に至るまでごく短期間を除き、この原則が廃止されたことはない。しかし、この自由への闘争において、女性と奴隷が議題に上がることはまだ稀であった。
翻ってフランスでは、革命後の短期間のみ報道の自由が謳われた時期があったが、恐怖政治下で検閲が復活してしまった。ナポレオンは「新聞が私の利益に反する内容の記事を載せ、私を困らせるようなことがあってはならない」という手紙も書いている。
多くの新聞が創刊されていたアメリカを見ていたトクヴィルは、安価に新聞を配達できる手段の不在がフランスのあらゆる遅れの原因であると分析した。
蒸気船、汽車、電信機、写真という技術進歩は、ニュースの伝え方を大きく変えた。工業化の初期段階では経済情報を最初に得た人などが莫大な富を得られたため、情報の先取りを要求する者も現れた。
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