日雇い労働者の街、大阪「釜ヶ崎」。著者は14歳の中学2年生のときに、好奇心に駆られてホームレスの人たち(親しみを込めて「おっちゃん」と著者は呼ぶ)への炊き出しのボランティアに参加する。
当時の著者は、ホームレスになるのは自己責任で、その人が悪いからだと思っていた。そこで、元ホームレスのおっちゃんに「勉強して、がんばっていたらホームレスにならなかったんじゃないですか?」と、なんとも直球の質問を投げかけた。すると、貧乏で高校には行けず、中学を出てからずっと釜ヶ崎で働いていた話をしてくれた。著者は自分が「がんばる」かどうかを選べる立場にいることを思い知った。
こうして現実のおっちゃんたちを知ったからには、「知ったなりの責任」を果たしたいと感じた。
次に参加したのが「夜回り」だ。夜回りとは、ホームレスの人が寝ているところに、お弁当を配って回る活動である。
そこで衝撃的な数字を知った。年間213人。2004年当時、大阪市内の路上で凍死したり餓死したりした人の数だ。
ホームレスの人は怠けていると思われがちだが7割近くの人たちは働いている。主な仕事は缶や段ボールといった廃品の回収だ。集めて回るのは家庭からゴミが出たあとの夜中になる。通勤通学の朝の時間帯に見かけるホームレスの人が、寝ていたり、中にはお酒を飲んでいたりすることが多いのはそのためだ。
廃品回収は、10時間かけて1000円にもならないような仕事である。それでも、ホームレスの人たちにはその仕事しかない。100円のカップ酒が唯一の楽しみなのだ。
さまざまな差別にもあい、青少年による襲撃や凍死、餓死とも隣り合わせ。路上の生活は想像以上に過酷である。
高校進学後も仲間を募って、炊き出しや夜回りなどの活動を続けた。米国ボランティア親善大使にも選ばれた。それでも、当事者たちの現実は何も変わっていなかった。
夜回りのとき、あるおっちゃんから言われた「わしにもできる仕事ないかな」というひと言がずっと心に引っかかっていた。ホームレスの人が働くには大きな壁がある。ホームレス状態から抜け出したくても抜け出せない。そうした現状の根っこには何があるのか考えるようになった。
大学は、ホームレス問題に熱心な大阪市立大学に進んだ。そして2年生のときに、友人2人と「ホームドア(Homedoor)」という団体を立ち上げ、あるNPO法人が主催する社会起業塾に史上最年少での入塾を果たした。
ホームドアには、居場所としてのホームの入口という意味と、人生からの転落を防止する柵になりたいという思いを掛けている。
活動を続けるなかで、一度ホームレス状態になるとそこから抜け出せない「負のトライアングル」とも呼ぶべき3つの要因があることに気づいた。「仕事」と「貯金」と「住まい」だ。それぞれが相関しており、どれか1つだけを手に入れようとしても、他の2つを持っていないと難しくなってしまう。
ホームレス生活は、実は出費が多い。必ず外食になってしまうし、500円があればコインランドリーやコインシャワー、銭湯を利用したい人も多い。最低限のことにお金を使って初めて、貯金の余裕が生まれるのだ。そして、まとまったお金がないと住まいは借りられない。
日雇いではない仕事をしようにも、携帯電話がなければ、面接に行っても採用通知を受け取る電話番号がない。いざ就職となっても、マイナンバーや給与口座のために住所が必要になる。そこで家を借りようとしても住民票が求められる。
自力で路上から脱出することは不可能に近いのだ。
そのとき構想したのが、「6つのチャレンジ」と呼ぶ支援のステップだ。このステップを刻んでいく仕組みは、今でもホームドアの中核をなす理念となっている。
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