著者は18年間、ずっと問題児だった。小学校に入学した日のことを今でも鮮明に覚えている。「起立!」の号令を聞き、同級生たちは一斉に椅子の後ろに立ったのに、著者は椅子の上にのぼったのだった。
椅子の上に立った方がどう考えても合理的だし、スペースも省略出来る。どうしてみんなは椅子の上に立たないのだろう? そう聞いても誰も答えてくれず、入学初日から先生に叱られた。悪気なくやったことを叱られ、理由が分からないからまた同じことをやり、叱られる。この繰り返しで自己肯定感は削がれ、違和感が積み重なっていった。
中学校に入ると、違和感はますます膨れ上がった。「これはなぜですか」と聞いても「こういうものだからです」としか返ってこない。著者は、納得出来ないと動けないたちだ。成績は次第に下がっていった。
高校に入ると、自分の居場所を求めて、海外に興味を持ち始めた。だから「日本の大学ではなくアメリカの大学を選んだ」というよりは、アメリカの大学に行くしかなかったという方が正しい。
とはいえ、アメリカの高校生に学力で勝ることなど出来るはずがなかった。校内ですら成績は1位ではなかったし、科学と芸術を愛しているとはいえ、世界で一番得意といえるレベルではない。
そこで、既存の「ものさし」ではなく、他の人とは全く異なる土壌で戦うことにした。もし数学で戦うとなると、国際数学オリンピックの金メダリストに負ける。アメリカの大学受験は、そうした世界1位が自分のライバルになる世界だ。一方、順位が付かない「ものさし」を築き上げることが出来れば、そこには自分しかいないから、1位を目指す必要はない。科学と芸術を掛け合わせている人ならたくさんいるけれど、想像力なら、創造性なら、熱意なら、忍耐力なら、切り拓く能力なら、絶対に誰とも重ならない自信があった。
アメリカの大学入試制度は、自分なりに戦い方を工夫することが出来る。他の人と全く異なる考えや行動をし続ける問題児にも、門戸は開かれていた。こうして著者は、世界1位の問題児として、スタンフォード大学への切符を手にすることとなった。
アメリカの大学十数校、そして応募した海外大学向け給付型奨学金の全てに落ちた時は、「この世の中の階層はどうせ永遠に変わらないのだろう」「下克上など存在しないのだろう」と確信した。あらゆるものを犠牲にした挑戦は、最後の1校の合否発表を残すのみとなっていた。
最後の合否発表日のこと。高校2年生の時に家を飛び出していた著者は、東横インのベッドに寝転がっていた。残るはスタンフォード大学のみ。合格なんて、している訳がない。結果確認ボタンを投げやりにクリックした瞬間、画面にCongratulationsと表示された。一瞬、その意味がわからなかった。
我に返って最初に連絡したのは、友人でも、親でも、恩師でも、サポートしてくれた世界中の先輩方でもなく、選考中の奨学金財団だった。奨学金がなければ、受かっていても進学することが出来なかったからだ。結局、最後の奨学金財団から合格通知をもらい、状況が一変する。地方からの快挙として、連日多数のメディアに取り上げられた。
著者は、47都道府県で唯一電車がない県、徳島県で生まれ育った。そんな地元では、外の世界と繋がる方法は限られてくる。ましてや海外大学への進学など、前例があるはずがない。なおかつ「問題児」という枠で海外大学に進学した人、かつ女性、かつ理系、かつ地方出身、かつ海外在住経験皆無、かつ元成績不良、という著者と全く同じ状況の人は、日本中を見渡しても存在しなかった。
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