現実をゲーム化したものがこれだけ世の中にあると、「人生はゲームだ」と言いたくもなる。人生にはたしかに楽しいことがあり、困難を乗り越える素晴らしい経験もできる。その観点からすれば「人生は神ゲー」で、「ずっとやっていたい」ものになる。でも、「もしゲームだとすると、なんでこんなつらいゲームをやらなければならないのだ」と感じる人なら、「人生は糞ゲー」という見方をとるだろう。
一方で「人生はゲームではない」という考え方もある。だからまずは、「人生はゲームである」のか否かが問題となるのだ。
みんながそれぞれの人生を歩んでいるからこそ、この問いへの答えは人によって異なる。かと言って、「人生はゲームかどうか」という、本当かどうかわからないふわふわしたものに振り回されるのは困る。それに対してきちんと説明するのが本書の役割だ。
人それぞれに答えはあるといっても、何でもありではない。理屈に合っていれば「まともな意見」になる。前提が変われば問題も、それに対する答えも変わる。たとえば、「人生はゲームと違ってリセットできない。だから人生はゲームじゃない」という意見には、「コンピュータゲーム」という前提が隠れている。スポーツやカジノはリセットできないゲームだ。
このように、ゲームに対する色々なイメージが正しいのかどうか、実は怪しい。だからまずは、「そもそもゲームとは何か」と、根本から考え直して前提を決めなければならないのだ。
それでは、ゲームの本質、ゲームの概念について検討してみよう。「概念」は英語で「コンセプト」だが、これは「つかむ」という意味の動詞が語源だ。すなわち、「ゲームにとって何が大事なのかを取り出す」ことが、ここでやりたいことである。
そのためには、一部のゲームだけに当てはまるものは捨てて、「どんなゲームにも当てはまるような大事なもの」、つまり「ゲームが成り立つための必須の条件」を取り出すことが大切だ。
「リセット」や「勝ち負け」は全てのゲームに当てはまるものではない。ゲームの本質は、「プレイヤーが目指すべき終わり」と、「プレイヤーにできること、できないこと」の2つが定められている人間の活動だ、と言えそうだ。
これらの要件を当てはめると、人生にはルール的なものはありそうだが、「目指すべき終わり」が定まっているとは言えそうもない。
したがって結論は、「人生はゲームとは言えない」となる。
以上の流れを説明しても、モヤモヤしたものが残る人はたくさんいる。必ずと言っていいほどよく見かけるのは、「僕には目的がある」という反論だ。しかしそれはあくまで個人の目的であって、みんなに共通の目的ではない。ゲームの場合、目的は自分で設定するのではなく、参加者全員に対してはじめから定められている。
主語を変えて、「料理はゲームか?」という問いでゲームについて考えてみると、これがなかなかに難しい。目的も「食べられる物をつくる」という最低限のラインはあるが、たとえば家庭料理には明確な目的がないし、どこまで行けば「終わり」なのかはっきりしない。さらにルールがあるかというと、お浸しひとつとってもつくり方は千差万別で、自由である。
「料理には毒を入れてはいけない」というのはルールになるだろうか? 料理に毒を入れれば食べた人が死んでしまう。だからこれは、「人を殺してはいけない」と言っているようなもので、料理以前の話だ。「料理のルール」ではなくて、人生一般のルールと言える。
では「それが料理のルールかどうか」をどう判定すればいいのだろうか。「こっちはゲームのルール、そっちは人生のルール」と分ける基準はなんだろう。
ゲームには目的とルールがあるという2つの要件だけでは、この基準を導き出すことはできない。これだけでは不十分なのだ。そこで、料理に「家にある食材だけを使う」という制限をはめると、とたんにゲームらしくなる。
それはこの制限が、料理を作るという目的の達成を難しくするからだ。ゲームのルールは、ゲームの目的の達成を難しくするものでなければならず、目的とルールは連動するのである。
ゲームの要件についてもう少し考えを進めてみよう。
たとえば、戦争はゲームだろうか。たしかに目的とルールがあり、ルールは目的の達成を難しくしている。しかし、「戦争はゲームだ」と言われると、何か違う気がする。
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