天才とは、「自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての真実だと信じること」である。
確信していることを声に出して語れば、それは普遍的な意味を持つようになる。モーゼもプラトンも、書物や伝統を脇において、世間の考えではなく自分の意見を語ったことが最大の功績だ。
目もくらむような賢人たちの輝きではなく、自分の内側でほのかに輝いている光を観察するべきである。自分の考えを、自分が考えたという理由で無視してはいけない。天才の仕事のうちにも、あなたが却下した考えがある。
自分の内側に自然と湧きあがってくる印象に従おう。そうすれば、自分が考えてきたのとまったく同じことを、他の言葉巧みな誰かから先に聞くようなことにはならない。
ねたみは無知からくる。良くても悪くても自分自身は受け入れなくてはならないし、自分に与えられた土地を耕さなければ、自身を育てる一粒のトウモロコシも自分のものにはならない。
私たちに宿っている力は、それを本人が実際に使ってみるまでどのようなものかわからない。
ある種の顔や性格、事実から強い印象を受ける一方で、まったく何も感じないものもある。それは、自分の中にその印象がおさまるべき場所があるかどうかに関わる。
自分を信じよう。偉人たちがそうしてきたように、同時代の人たちとふれあい、ものごとの縁を受け入れよう。
子どもや赤ん坊、動物は、自分の感情を疑い、損得だけを考え、目的とかけはなれた力や手段を選ぶことはしない。かれらには完全な精神と、何者にもとらわれていない目が備わっているのだ。少年期、思春期、壮年期であっても、自分の足で立とうとするならその主張は無視されることはない。
少年の機嫌をとるべきは大人である。大人は自意識で自分を牢獄に閉じこめている。言動がひとたび讃えられれば、多くの共感や敵意を向けられ、何をするにも周りを気にするようになる。
いかなる誓いも立てず、偏見も汚れも恐れない無垢なる目で何事も見られる人は、いつの時代でも恐るべき存在である。自分なりの考えを、傾聴に値する意見として人びとに聞かせることができる。
その声も、世間の中にいると聞こえなくなってしまう。社会でもっとも求められる美徳は順応であり、自己信頼は嫌悪される。ものごとの本質や創造性より、名目や習慣が愛される。
一個の人間でありたければ、社会に迎合せず、善の本質を見きわめよう。自分の精神の高潔さほど、神聖なものはない。
善良さには気骨が必要だ。世間の考えに従うのであれば、徳は例外に近いものとなる。善行は自分の勇気や慈悲心を見せるためのものであり、そうした行いをしない日常に対する贖罪と釈明なのだ。
しかし、「人生は生きるためにあるのであって、見せ物にするためではない」。つつましくとも誠実で平穏な人生のほうがよい。私がしなければいけないのは、他人の本分に属することよりも私自身に関わることだ。これは、重要なものと些末なものを分ける指標にもなる。
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