本書は娘の疑問から始まる。なぜ、こんなに「格差」があるのか。答えは1万年以上前に遡る。
すべてのきっかけは、土地を耕さなければ生きていけない人たちが農耕を発明したことだ。試行錯誤を経て農耕技術が向上する過程で、経済の基本となる要素、「余剰」が生まれた。これが人類を永遠に変える数々の制度を生み出した。
メソポタミアで世界最古の文字が誕生したのは、農民が共有倉庫に預けた穀物の量を記録するためだ。この記録は、債務(借金)と通貨のはじまりでもある。労働者への支払いの際、主人は労働時間を穀物量に換算して貝殻に刻んで渡した。労働者は収穫後に貝殻と穀物を交換することもできたし、貝殻をほかの人がつくった作物と交換することもできたのだ。貝殻が通貨として機能するためには、将来約束の穀物を受け取れるという「信用」がなければならない。そこで、権威付けの存在として、国家が登場する。
余剰がなければ国家は存在しなかった。支配者を守る警官、国を運営する官僚、そして余剰作物を狙う外敵から国を守る軍隊も生まれなかっただろう。じつは、聖職者も同じだ。農耕社会が土台となった国家の余剰配分はとんでもなく偏っていた。その状態を庶民に納得させるために、「支配者だけが国の権利を持っている」と信じさせる聖職者が必要とされた。
農耕は、自然の恵みだけで食べていける地域では発達しなかった。農耕から生まれた余剰が、やがてグローバルな格差、社会の中での格差へとつながっていったのだった。
大昔、ほとんどのものはコミュニティの中で生み出され、仲間内で交換されていた。ここに商業的な意味はなかった。それがここ数百年のあいだに、ほとんどのものが「商品」になった。人類はどのようにして「市場社会」への道を歩んできたのか。
きっかけはヨーロッパの航海技術の発達だった。商人たちはイングランドやスコットランドで羊毛を船に積み、中国で絹に換え、絹は日本で刀に、刀はインドで香辛料に交換する。そうして本国へ戻ると、最初に船積みした羊毛の何倍もの羊毛と、香辛料を交換できた。
これを見たイングランドの領主たちは、土地から農奴を締め出し、羊毛の生産をはじめた。他の人に羊毛を作らせ土地代をとるようになると、土地もまた商品になった。
土地も職も失った農奴は、労働力を売って生きていくしかない。これが労働市場のはじまりだ。産業革命によって工場ができると、労働力への需要は高まり、莫大な富を得る者と貧困にあえぐ者が共存する世界が生み出された。
封建時代には、農奴が土地を耕して作物をつくり(生産)、領主が年貢を徴収して(分配)、余剰分を売ったカネで支払いをしたりカネを貸し付けたりしていた(債権・債務)。
ところが、土地と労働が商品になると、この流れに「大転換」が起こった。作物ができるよりも前に、賃金や土地代、作物の種代などの資金が必要になったのだ。元農奴たちは、領主から借りた土地で羊毛などの生産をする起業家になり、借金をするようになった。
利益を出すために新興の起業家は借金を重ね、新しいテクノロジーに投資する。金持ちがもっと金持ちになる一方、多くの起業家は倒産の危機にさらされ、労働者は過酷な条件で働かされた。
市場社会では、すべての富が借金によって生まれる。産業革命の原動力は実は石炭などではなく借金だったのだ。
借金をしたい起業家が増えると、金融機関の出番だ。昔の銀行は、預金者からおカネを預かり、借り手から利子を取って儲けていた。今の銀行は、起業家に融資するためのおカネをどこから見つけてくるか。答えは「魔法のようにパッと出す」だ。口座残高の数字を電子的に増やしさえすればいい。
しかし魔法の力には落とし穴がある。銀行が魔法の力を使いすぎると、社会全体が借金漬けになり、利益を出しても返済しきれなくなる。多くの企業が破綻し、失業者が増え、彼らが買い物していた店も傾くと、銀行が苦しいという噂が広がり始める。不安になった預金者が現金を引き出そうとしても、銀行にはすべての引き出しに応じる現金はない。利益と富を生み出す源泉である借金は、金融危機と経済破綻をもたらしもする。
金融危機の後には不況がやってくる。そうなると事態の収拾は国家にしかできない。中央銀行が各銀行にカネを貸すのだ。もちろん魔法の力を使って。銀行が破綻した際の預金も国が保証する。やっていることは貝殻に数字を書いて渡すのと同じだ。通貨が信頼に足るものだと人々が信じていればいい。
市場社会には奇妙な性質をもつ「商品」が2つある。ひとつが労働力だ。別荘を買うのはそこで休暇を楽しめるからだ。真っ赤なフェラーリは自慢できるし、トマトはおいしくてお腹を満たしてくれる。これらの交換価値は、経験価値に基づいている。だが労働力は違う。相手に側にいてほしいから人を雇うわけではない。
人を雇うかどうかは、採用することで増える売上と、給料などの費用の差引で決まる。たとえば、雇用促進のために労働組合が賃金カットの受け入れを宣言したとしよう。これで雇用が増えるとは限らない。賢い経営者なら、賃金低下で消費者の購買力が低下することにも、それを不安に思ったほかの経営者が採用を止める可能性にも思い至るからだ。
もうひとつの奇妙な市場はマネー・マーケット、短期金融市場だ。起業家が事業をはじめるためには、いくらおカネを借りるのが適当だろうか。必要な金額と金利による、と考えるのは間違いだ。中央銀行が大幅な金利値下げに踏み切る予定だと報道が出たとしよう。経営者は喜んでおカネを借りるだろうか? むしろ、「大幅な金利値下げ=景気悪化」と考えて、借金をして人を雇う場合ではないと考えるだろう。
労働市場とマネー・マーケットを動かしているのは、参加者の「悲観的な予想」だ。誰しも自分を守りたいという短期的な衝動に勝てない。だから自ら悪い予想を立てて自己成就させてしまうことになる。
テクノロジーが企業の生存競争に欠かせなくなり、機械が人間に代わって休みなく働くようになった。その結果、人間の生活は楽になっただろうか。むしろ、テクノロジーに追いつくために必死に働き、自らが生み出したものに恐れと不安を感じるようになったように見える。
本来の目的である利益面でも、「自動化」には問題ありと言わざるをえない。自動化で製造コストが下がると企業間の「競争」が激化する。すると、最低限の利益しか出なくなる。ロボットは製品を買ってくれないので「需要」が下がる。生存競争に勝つどころか、事業の存続を脅かすほどの価格低下を招きかねないのだ。
倒産する企業が増えると、借金返済が滞り、経済危機に発展する。生き残った少数の企業は、競争相手が減ったことで価格を上げることができるようになる。職を失った人は生活のために安い賃金でもいとわず働こうとするため、機械を買うより人を雇うほうが安上がりという矛盾が生じる。経済危機が起こると、人間の労働力は復活するのだ。
機械の労働がすべての人に恩恵をもたらすようにするには、一部の人が所有する機械をすべての人で共有し、機械が生み出す利益をみんなに分配するような大転換が必要だ。
第二次大戦中、ドイツ軍に捕われた捕虜の収容所では、「裁定取引(アービトラージ)」が行われていたという記録がある。あるフランス人将校が、赤十字から届く物資の中にあった嗜好品で取引を始めたのだ。将校はフランス人から紅茶を仕入れると、イギリス人のところへ行って紅茶とコーヒーを交換する。そして、コーヒーの一部を懐に入れ、紅茶を提供したフランス人にコーヒーを渡した。
ほどなくして、収容所では捕虜同士が欲しい嗜好品を交換するようになった。やがて直接取引が面倒になると、タバコが収容所内の実質的な通貨になった。腐らず長持ちするタバコは、交換価値を保存する手段として用いられ、タバコを貸して利子を受け取るビジネスも生まれた。
貨幣経済が成り立つかどうかは全員が通貨を信頼しているかどうかにかかっている。収容所生活が長引くと予想されるときには物価は安定していた。戦争がまもなく終わると知ると、捕虜たちは借りていたタバコを返済せずに吸いつくし、収容所の門が開く頃には所内の経済は崩壊していた。
塀の外でも、さまざまなものが通貨として使われてきた。金属の硬貨が紙幣に置き換えられ、スマホのアプリでの支払いが当たり前になっても、通貨を通貨たらしめているのは「信頼」だ。
収容所の通貨は政治と無関係だったが、塀の外の世界のマネーサプライの管理者は政治の影響と無縁ではいられない。だからこそ、2008年の金融危機を経験した人々は、権力者から切り離され、民主的かつ安全なデジタル通貨の構想へ期待を寄せるようになった。問題はデジタル通貨をいかに信用にたるものにするかだったが、サトシ・ナカモトのアルゴリズムがその問題を見事に解決してみせ、ビットコインが生まれた。
ビットコインは中央による管理が不要で、全員が取引を監視し正当性を担保する。参加者は熱狂したが、問題もある。利用者は詐欺や盗難から守られることはない。そして、誰もマネーサプライに介入できない以上、危機が起きたときにマネーの流通量を調整することもできない。
マネーサプライの規制と管理を政治から切り離そうとすれば経済が行き詰まり、危機が起きたときの回復が妨げられる。唯一の解決策は金融政策の決定過程を民主化することだ。そのためには国家の民主化も必要だ。
市場社会では交換価値が経験価値に優先する。目の前で恐ろしい山火事が起きていたとしよう。悲劇的な状況であるが、経済はそこから恩恵を受ける。消火飛行機や消防車が消費する灯油や軽油は石油会社の売上になり、燃えた家や電線の復旧で建設業者が潤うのだ。市場社会では、環境保護は恐ろしいほどに軽視される。木や微生物に交換価値がないのであれば、市場社会にとっては何も意味がない。環境破壊から交換価値が生まれるかぎり、迅速に対処することができないのだ。
テクノロジーや金融政策の決定過程の民主化が必要とされるように、著者は地球資源と生態系の管理も民主化しなければならないと考える。権力者が好むのは「すべての商品化」であるのに対して、本書の著者が主張するのは「すべての民主化」だ。このふたつの意見の衝突が、もっとずっと先の未来を決めることになっていくだろう。
民主主義ではひとり1票の投票権があるが、市場ではたくさんの富を持つ者の支配権が大きくなる。たとえば大気を民営化して、お金持ちに対策をゆだねたとしよう。お金持ちは排気量を減らすと利益が減り、海抜が上がっても影響を受けないとしたら、海抜の低い場所に住む何百万という人の家や畑が海面下に沈むことをいとわないだろう。民主化でなければ地球を守ることはできないのだ。
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