著者が人生で一番悩んだことは、間違いなく人間関係だ。過去の日記にも、ほとんど人間関係のことが書かれていた。心理学者のアドラーも「人間の悩みはすべて対人の悩み」と言っている。
一方で、人間関係の悩みは口に出すには差しさわりがあり、あまりないことになっている。代わりに、学校や会社などの社会の問題が取り上げられている。しかし、その背後では“人間”が一番の原因になっているかもしれない。
著者は高校生のとき、社交不安障害(対人恐怖症)になった。周囲の視線がやさしいものだったら違っていたはずだ。子どものいじめも、親の暴力も、問題だと思われるようになったのは、つい最近のことに過ぎない。我々は人間関係からくる苦しみを、問題として取り上げてこなかったのだ。
友情も恋愛も親子愛も兄弟愛も、すべてが素晴らしいと考えるのではなく、悪い面もあると考えるのが普通だろう。人間には醜い面があるのだから、少し離れてつながることを考えた方がいい。
それなのに、奇妙な性善説のせいで、世の中は近すぎる距離で「閉ざされて生きるようなしくみができている」。日本では特に戦後、人は家庭、会社、学校の3領域に閉じ込められていた。それが90年代あたりになってから、家庭を持たない人が増え、終身雇用も少なくなり、不登校も増えた。つまり、「家庭、会社、学校の3つの領域から人が降りはじめたのだ」。人びとはきつくて耐えられず、いわば「沈黙の革命」を起こしたといえる。
だが、世の中にはこの3領域以外の居場所が育っていなかった。孤立、ひきこもりの問題もそのせいだろう。著者はそのために、「社会に適応できない/しない人のための居場所」を作った。少し離れた、流動的なつながりがたくさんできることで、閉ざされて密着している人間の世界を外から崩してやりたい。それが著者の願いだ。
著者が日記につづった人間関係のことの大部分は、「友人」に関することだった。友人というよりは、家族でも恋人でもない、まわりにいる大勢の人たちに関することだ。
視線の密度の濃い高校の教室で、人目を気にしすぎる病に罹ってしまった。フリーライターになり、教室やオフィスのような「人の詰まった」環境から離れ、話の合う友だちと出会いやすくなったことで、気づけば病は消えていた。
人目が多く人間関係が固定されている場所にいると、「どう思われるか」に振り回されがちになる。そして、否定的な視線に満ちている場所では、さらに人目を気にすることになり、心の負担も大きくなる。
集団とは「みんな同じ」を強いるところだ。問題を解決するには、集団から離れた方がいい。あらかじめ、楽に集団を変えられるような準備をしておこう。“人の詰まった箱”のような場所は、そもそも人間に合っていないのではないだろうか。その箱に疲れる人には、オプションを用意して当然だ。
やさしい視線のある場所の、やさしい、ゆるい人間関係に乗り換えることだ。人の目に服従することなく、主体的に生きられれば、生きている感覚が違ってくる。
あなたが新しく集団に入ったとする。そこで過ごすうち、何を言えば好感を持たれ、何を言えば関心を持たれないのかがわかってくる。そうなると、好感を持たれそうなことをやりたくならないだろうか。それが自分のやりたいことではなく、無理に合わせているのだとしたら、どんどん自分を失っていくことになる。
あなたが集団に気に入られようとしてしまうのは、自分の弱さのせいではない。
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