一般的に、「聞く」は声が耳に入ってくること、「聴く」は声に耳を傾けることを指す。心理士の著者が定義するなら、「聞く」は相手の語りを言葉通りに受け止めること、「聴く」は相手の語りの裏にある気持ちに触れることだ。
「聞く」と「聴く」のどちらがより難しいか。著者は「聴く」のほうがレベルも難易度も高いと思っていたが、実際は「聞く」のほうが「聴く」よりもはるかに難しい。
「なんでちゃんとキいてくれないの?」と言われるとき、求められているのは「聴く」ではなく「聞く」である。心の奥底にある気持ちを知ってほしいのではなく、言っていること、言葉にしていることを受け止めてほしい。それが「ちゃんと聞いて」の内実である。
「聞く」ことができないとき、僕たちに何が起こっているのか。決して「聞く必要はない」「聞かない」と思っているわけではない。「聞かなきゃいけない」「聞こう」という気持ちはあるはずだ。それなのに、心が挟まり、耳が塞がれて、聞けなくなってしまう。
あなたが話を聞けないのは、話を聞いてもらっていないからだ。心が追い詰められ、脅(おびや)かされているとき、人の話を聞くことはできない。誰かのストーリーを受け止めるスペースが心の中に生まれるのは、自分自身の話を聞いてもらえたときだ。
「聞く」を回復するために、まずは「聞いてもらう」からはじめよう。
伝えたいことがあるのに聞いてもらえないとき、「聞く」の問題が立ち上がる。いくら言葉をソフトにしても、ロジカルに話しても、エビデンスを示しても、相手は全然わかってくれない。
このとき、問題は言葉の中身ではなく、2人の関係性にある。2人の間に不信感が横たわっているから、何を言っても聞いてもらえないのだ。
逆に考えると、2人の関係性が良好である限り、普段の僕らはそれなりに聞けている。「郵便局行ってくるね」といわれたら「行ってらっしゃい」と応じる。「ちょっと疲れてるんだ」といわれたら「早めに寝なよ、食器洗っておくから」と返す。普段の「聞く」は、呼吸のように自然に、かつ円滑に行なわれているのである。
精神分析家で小児科医だったウィニコットは、「対象としての母親」と「環境としての母親」というアイディアを提唱した。「対象としての母親」は、あなたがいま心に思い浮かべている母親の姿である。母親はこういう人とか、こんな思い出があったとか、一人の人としての母親だ。
これに対して「環境としての母親」は、あなたに意識されない母親のことだ。たとえば子どもの頃、タンスには綺麗にたたまれたTシャツがしまってあったとする。しかしあなたは「今日もお母さんが洗濯をしてくれたんだ、ありがたいな」「しわひとつないや、感謝です」とは思わなかっただろう。「環境としての母親」の存在は、当たり前すぎて気づかれない。
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