生物は40億年にわたり、ずっと複雑だった。言葉や思考、感情や理性、心や意識といったものは当初なかったが、生物がずっと他の生物や周囲の環境を「感知(センシング)」していたのは間違いない。
感知は知覚とは違う。知覚とは、別のなにかに基づく「パターン」を構築し、そのなにかの「表象」をつくり出し、心の中に「イメージ」を形成することだ。だが感知も、生命の維持に役立つ反応という意味で、間違いなく知的な反応のひとつといえる。感知とは非明示的な知性のことであり、ホメオスタシス(恒常性)に従って生命を管理している張本人でもある。このホメオスタシスとは、栄養素や体温などを最適な範囲に保ち、生命を調節するための厳格なマニュアルとでも言えよう。
人間はそれに加えて、豊かな表象を生み出す明示的で意識的な知性も携えているが、その基底にあるのはあくまで感知であり、それはすべての生物にあまねく存在しているはずだ。
心は、感知の次に生まれたと考えられる。それは神経系を構成要素とし、表象やイメージの構築、ひいては感情や意識につながるものだ。こうした段階の違いをしっかりと理解しないかぎり、意識について説明することは難しい。
ここで強調したいのは、心や意識を「神経系のみに頼る理論」で説明することはできないということだ。たしかに心や意識について神経系を無視することはできないが、神経系だけで説明しようとすることは、意識が説明不能だという思い込みを助長している。
神経系はそれ以外の身体部位と融合することによってはじめて、イメージを構成する空間的パターンを構築し、知識を明示的なものに変える。そしてイメージとして描き出された知識を記憶し、操作できるようにする。内省、計画、推論、アイデアの創造といったものが可能になるのだ。こうして心が生まれ、感情や意識がもたらされる。
知性は、感知にもとづく非明示的なものと、心を備えた明示的なものの2つに分けられる。前者は細胞小器官や細胞膜における科学的・生体電気的なプロセスにもとづいており、顕微鏡や理論的説明などがないと調べられない。一方後者はイメージ的で、感情や意識の存在なくして機能しない。しかしどちらも目的は同じだ。生存するうえで生じる問題を解決することである。
細菌などの単細胞生物は、この非明示的な知性をうまく活用している。私たち人間は、明示的な知性と非明示的な知性の両方を享受しているという点で、より大きな利益を得ている。
心を構成するのはイメージだ。「意識の流れ」という表現があるが、その流れは多数のイメージで構成されており、その淀みのない流れこそが心を生み出している。
周囲の世界に存在する事物や活動の知覚は、私たちの五感を通じてイメージへと変わる。そして心の中でイメージを関連づけ、組み合わせることで、新しいイメージや記号を生み出す。
イメージが実際にどこで組み立てられ、体験されるのか、どこに存在しているのかという問いに対する明確な解はない。一つ言えるのは、イメージはさまざまな場所やタイミングでつくられ、その解像度もさまざまということだ。
また、心のプロセスが神経科学的な現象に基づいているという説は間違いなく正しいものの、この命題はいま少しの掘り下げが必要だろう。一部の学者は、「細胞の内部で作用する量子レベルのプロセスが、心的事象において大きな役割を果たす」と考えている。分子より小さなレベルの出来事が光合成などの複雑な生物学的プロセスの解明に役立つことも、そうした考えの追い風となっている。
とはいえ、心が意識を持つプロセスを説明したいのであれば、そこまで考える必要はない。意識を理解するうえで大切なのは、「心に備わる要素をうまく並べ替えること」であって、ひとつひとつの要素を構築することではないからだ。
意識について検討するうえで、心とともに考えなければならないのが感情だ。感情はその起源を念頭におくと、もともとは素朴な満足感や基本的な不快感といったところから生まれたのだろう。そこから感情は、「次に何をすればいいのか、あるいは何をしてはならないのか」を教えてくれる、繊細な助言役として進化していったのだと思われる。
感情にはあいまいで判別しにくい原初的で単純なものもあれば、正確で鮮明なイメージを生み出す成熟したものもあるが、いずれにせよ目的はひとつである。それは身体上の情報を与えることだ。これは、生命の管理にとって非常に役に立つ。
しかしここで疑問が生まれる。私たちはこうした情報に関する知識を、どうやって手に入れているのか。世界全般の事物を単に「知覚」するのと「感じる」のとでは、何が異なるのか。「感じる」ためには何が必要なのか。
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