妻子を持つ中年の岡田修一は、生命保険の営業職として働いている。「フルコミッション」、すなわち「完全歩合制」の会社で、新規契約を取り付ければ、保険料の一定割合が向こう1年間の給料となる。
しかし1年たつと、その割合はガクンと減る。そうなる前に新しい契約を獲得しなければ心もとない。毎月恐怖感に押しつぶされそうになる。
「岡田!」事務所に出社したばかりの修一を社長の脇屋が呼ぶ。「解約になったぞ」。修一は絶句した。10カ月前に運良く契約に漕ぎ着けた学習塾の教室長ら20名分の保険が一斉に解除となった。
来月の給与からその分の保険料が引かれ、これまでの保険料も保険会社に戻さなければならない。「こいつもそろそろいなくなるな」という空気感が事務所に漂った。
「修一、都会で頑張れ。こんなところに帰ってきちゃダメだぞ」。修一が就職すると同時に客足を失い、店じまいをした実家の文具店。父は修一が小学生に上がる頃、「岡田文具店」から「ファンシーショップ Okada」と名を変え、品ぞろえも変えた。店は中高生であふれ、活気に満ちていた。「将来は好きなことをやったらいい。ここなら何をやっても儲かるぞ」と頭をなでてくる父親を誇らしく、またありがたく思っていた。
こんなところに帰ってくるな――。父の悲しそうな顔を修一は忘れることはできない。
そんな父も半年前に他界、田舎で母は一人暮らし。実家のことを考えなければならない。しかし、自分の人生をなんとかするだけで精一杯だ。
「……なんで俺ばっかりこんな目に遭うんだよ」
ケータイがさっきから何度も震えている。妻の優子からだった。「ねえ、わかってる? 今日、夢果のことで学校で話があるって」。娘の夢果は不登校になっていた。
タクシーなら20分遅れで着きそうだ。修一はタクシーの後部座席に乗り込んだ。高校生のように若い運転手はニコッと微笑むと、修一が告げてもいないのに「娘さんの学校に急いだ方がいいんじゃないですか?」と言った。
運転手は御任瀬卓志。「おまかせタクシー」が本名なんて、悪い冗談だ。「この仕事を長い間やっていますと、乗った人がどこに行くべきかくらいはわかるようになりますよ」
メーターが目に入った。69,820。「おい! おまえ詐欺かなんかだな」と声を荒らげた瞬間、69,730に下がった。「どうなってんだ、この車は。説明しろ」
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