1932年、鹿児島市薬師町。稲盛和夫氏(以下、稲盛)は、印刷業を営む父と家を切り盛りする母との間に、7人兄弟の次男として生まれた。言い出したら聞かない泣き虫で甘えん坊の「ごてやん」だった。だが、鹿児島に伝わる郷中教育や風土が、彼を反骨心旺盛な少年へと変えていく。成長するにつれてたくましくなり、自他ともに認めるガキ大将となった。
1944年の春、稲盛は名門校である鹿児島一中(旧制中学)を受験。しかし、結果は不合格となり、西田国民学校高等科へ進んだ。悔しさから、翌年には旧制鹿児島中学を受験し、見事合格を果たした。
その後終戦を迎えて学校制度が変わり、稲盛は父に高校進学を嘆願。進学を果たし、家計の足しにしようと紙袋の行商を思いつく。この行商経験が、稲盛の事業の原点となった。
稲盛は、友人が読んでいた受験雑誌『螢雪時代』に衝撃を受け、大学進学を考え始めた。薬学の研究を志し、「人の二倍は努力する。人が二倍だったら五倍する」と心に決め、粘った。受験校は先生の勧めもあり、大阪大学医学部薬学科に。結果は不合格だったが、地元の鹿児島県立大学工学部(現 鹿児島大学工学部)を滑り止めで受験し、合格した。
応用科学科に進み、製薬に携われる有機化学を専攻。就職では絶対に自分の夢を叶えようと猛勉強した。ところが、当時の就職環境は最悪の状況だった。不況が深刻化し求人は減る一方。そこで稲盛はあまりに狭き門の薬品会社への就職は諦め、石炭・石油などの資源エネルギー産業に的を絞るも、ことごとく不採用だった。
働きたいのに働く場所がない。思い詰めていた稲盛に、大学の恩師から声がかかった。京都の老舗碍子会社の松風工業が採用してくれるかもしれないというのだ。聞いたことのない名前だったが、頭を下げてお願いした。
3,400冊以上の要約が楽しめる