徳島県阿南市、日亜化学工業の本社のある所在地だ。その日亜化学工業が世界に名を馳せることになった、輝度1cdの青色発光ダイオードを発売したのは1993年の暮れのことである。この分野の技術者・研修者に大きな驚きを与えたのが、地方の化学メーカーだったということも、大きなニュースになった。
その開発を担ったのは、徳島大学大学院の修士課程を修了後、日亜化学工業に入社した中村修二氏である。
日亜化学工業の第一印象は、「なんと汚い会社か」というものだったという。配属は開発課で、最初に担当したのはリン化ガリウム。開発すれば売れそうだという目的で取り組むも、予算がないため、製造装置類も自分で作っていた。
その結晶成長のためには高価な石英管を使っていたため、使い捨てをしないように再生利用していた。高温に加熱した際に圧力が上がることから、石英管の爆発も相次ぎ、無事でいられたことが不思議なほどだった。中村氏はそんな危険も乗り越え、1982年にこの開発テーマを完了させた。
次の開発はヒ化ガリウムだった。リン化ガリウムの時に鍛えた石英の溶接技術も活かして、開発に成功。研究から製造、品質管理、営業まですべてこなしていた。評価を自社で行えるようにするため、LED製造も内製化していく。
事業化に成功するも、爆発的に売れなければ評価されない。周りの中途入社の人にも出世争いでどんどん先にいかれる。そんな課題認識の上で、中村氏は開発テーマとして製品化すれば必ず売れるだろう高輝度青色LEDを選んだのだった。
1988年3月に、中村氏は米国フロリダ大学に派遣される。青色LED用の単結晶膜を形成する手法の1つで、装置の価格に手が届くMOCVD法に挑戦するためだった。米国に行くことについて、小川信雄社長(当時)に打診したところ、その場で決まった。
順風満帆かと思いきや、フロリダ大学に着くと、2台あるはずのMOCVD装置がなくなっていた。1台は隣の研究室に取られ、残りの1台はこれから作るという状況だった。まるで日本にいたころのように、装置作りに追われ、装置が完成したのは派遣期間の1年間のうち、わずか1カ月を残したタイミングだった。
結局3、4回の結晶成長実験をしただけで、日本に帰国することになった。米国で得たものもなく、帰ってきても居場所がない。そんなゼロからのスタートを余儀なくされた。それでも2人の新入社員とともに、数億円の投資も受け、装置作りを開始した。半年が過ぎても青色LEDの発光層となる窒化ガリウムができず苦戦していた。
発光材料として窒化ガリウムを選んだのは、「ほかの人がやってないから」という理由だったが、さらにヒーターで1000℃に加熱するという人と違う方法をとり、ヒーターの故障との戦いに明け暮れる。そんな中、新入社員の1人はあきらめ、退職してしまう。
転機は切れないヒーターの完成だった。
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