中山ステンレス工業株式会社は、1956年に建築金物工事業として香川県に創業した。著者・筒井恵氏の父親が興し、父親の没後は母親が経営を継いだ。
著者の夫は、中山ステンレス工業に入社後、著者と結婚。製品の製造や、現場施工を担う「職人」畑の社員であったが、専務を経て、2004年に社長へ就任した。その頃には、会社の経営状態はかなり悪化していた。建設業界の不景気に加え、計画性のない資金繰りと、「利益管理」という発想に乏しく、仕事がありさえすれば儲かっている気分になる企業体質が祟ったのである。
その頃すでに自身の会社を立ち上げ、中小企業診断士として活躍していた著者は、夫の会社にコンサルタントを紹介した。コンサルタントの協力のもと、中山ステンレス工業は銀行に事業改善計画を提出。受注を増やし、とにかく営業利益を上げていくという方針で営業活動に励み、売上は回復したものの、資金不足の深刻さは増すばかりであった。著者の会社名義で多額の貸付金を中山ステンレス工業に流入させ、当時は会長となっていた著者の母の個人資産も投入していたが、資金不足は解消されない。そんな中、会社の資金繰りを担当していた母の入院も重なり、会社はますます立ち行かなくなった。そして、2012年、中山ステンレス工業は倒産を免れ得ない状況にまで追い込まれた。
中山ステンレス工業を倒産させる決意を固めた著者らは、弁護士とコンサルタントと共に、破産手続のスケジュールを確認し、行動計画を立て始めた。まずは、手続に必要な書類や費用の手配を済ませた。
何かと出金が多く、前月の売上金450万円を銀行口座から全ておろし、残高はほぼゼロになってしまうなど、綱渡りの捻出も余儀なくされた。出金の具体的な内訳は、破産手続の予納金や、優先債権である社員の労務費などである。
また、社員へ破産する旨を伝える説明会を開き、社長である夫は、社員たちの次の就職先へのあっせんも行った。
並行して債権者への受任通知などを済ませ、著者は夫の債務のうち連帯保証していた分について、テナントビル・工場・事務所なども手放し、代位弁済した。
その後、夫個人と、中山ステンレス工業という法人の両方の破産申立手続が、高松地方裁判所にて行われた。時をほぼ同じくして、4度の債権者集会が開かれ、一連の手続は幕を閉じた。
中山ステンレス工業が倒産するまでの流れが冷静かつ客観的な筆致で語られるが、時折、著者の夫に対する「家族」としての視点が垣間見られる。たとえば、危機に瀕した中山ステンレス工業を著者自身がコンサルティングしなかった理由は、「夫婦だと喧嘩になってお互いの言うことを聞かなくなってしまう」からであると説明されているし、「職人」気質の夫が経理に明るくないことを心配しつつも、必死に仕事を受注する夫の頑張りに対する著者の目線はとてもあたたかい。会社の先行きが全く見えなくなった段階で、責任感の強い夫が、関係者に迷惑がかかることに心を痛め、自死まで考え始めるくだりは、著者の悲痛な思いが読者にダイレクトに伝わる箇所だ。
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