私たちの人生は、不安に満ちている。自分の身のまわりのことから世界情勢などの巨視的な問題まで、誰もが大なり小なり不安や心配を抱えているだろう。不安や心配は、現状が変化することへの恐れだといえる。
しかし、よく考えてみれば、この世のすべては常に変化し、私たち自身も変わり続けている。将来を見通せないことなど当たり前だし、どんなに好ましい状態でも「現状維持」など不可能なのだ。自分は変化し、周囲も変わる。そして、いつかみんな死んでしまう。これが現実だ。
ブッダは「変化しないという錯覚に酔うことをやめなさい」と説いている。自分が変わること、自分の生活が変わること、未来がわからないことはすべて当たり前なのだ。私たちは当たり前の現実を認めることから、人生をやり直さなければならない。
「老後の生活は大丈夫だろうか」「明日のプレゼンテーションはうまくいくだろうか」「資格試験に合格できるだろうか」など、私たちはいつも未来のことを心配する。
しかし、未来がどうなるのかなど誰にもわからない。仏教は、未来を知ることは不可能だと断言している。
一見当たり前のようだが、市場の動向や株価の変動、天気予報など、私たちはいつもわからない未来を知ろうとしている。未来が不透明であることを受け入れれば、将来に対する不安や心配を格段に減らせる。わからないことを心配しても仕方がなく、私たちはいつも最善を尽くすしかないのだ。
また、人には欲がある。「もっとお金が欲しい」「出世したい」など、さまざまな欲だ。
しかし、こうした欲が完全に満たされることはない。たとえ望むものをすべて手に入れたとしても、幸せだとは限らない。
お金を得ればお金がなくなることが不安になり、出世すればその地位を失うことが心配になる。不安や心配は外からやってくるのではなく、自分の心が生み出しているのだ。
仏教心理学では、あらゆる生命の心に「慢」という煩悩があると教えている。これは経典の言葉であるパーリ語では「māna(マーナ)」といい、日本語の「測る」という意味だ。慢は「自分を測る」心の働きである。
ここでの「測る」は、自分の存在を測るという意味だ。自分が何者なのかを知るために、人は自分と他人を比較する。この心の働きが慢であり、自己評価の煩悩である。
私たちの中には自我意識が存在する。他人と比較して測ることで、「自分はこういうものだ」という自我を確立しようとしているのだ。だから私たちは出会う人すべてと自分を比べている。比べることで自分にどの程度の価値があるかを知ろうとしている。
人は、自分だけでなくすべてのものに対して価値を測り、評価を定め、それに合わせて対応している。これが生命の基本だ。
道に落ちているのが1円玉なら価値が低いので放置するが、1万円なら価値が高いので拾うかもしれない。家に出た黒い虫がゴキブリなら悲鳴をあげるが、カブトムシなら喜ぶかもしれない。
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