著者の知りあいの知りあいに、阪神・淡路大震災のあと、近くの小学校の体育館へ炊き出しに通っていた女性がいる。長らくそこに通う間、彼女は避難所で生活しているある女性と語らうようになった。
相手の女性には受験生の息子がいた。深夜の受験勉強に疲れ、一階の居間の炬燵で居眠りしていた息子を、その日は起こすのがかわいそうになってそのまま寝かせることにした。翌日未明の激震で二階は崩れ落ち、その子は階下で押し潰された。
女性はじぶんの不注意で息子が死んだのだとじぶんを責めつづけていた。そして、たまたま出会ったボランティアの女性に、このことを繰り返し語った。ボランティアの女性はただ聴くことが精一杯だったと言うが、ただ聴くということだけが、相手の爛れたこころの皮膚を、かろうじて一枚つづりになった薄膜で覆うことができた。
この話を聞いて、著者は中川米造の『医療クリニック』に出てきた設問のことを思い出した。「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」と言う患者のことばに対して、あなたならどう答えますかという問いである。これに対して、ほとんどの医師や医学生は「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励まし、看護師と看護学生の多くは、「どうしてそんな気持になるの」と聞き返すことを選ぶ。だが、精神科の医師の多くが選んだのは、「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と返すことだ。
なんの答えにもなっていないようにみえるが、精神科医の返答は「患者の言葉を確かに受け止めました」という応答だ。語る側にすれば、言葉を受けとめてもらったという、確かな出来事が起こる。本書では、〈聴く〉という、他者の言葉を受けとめる行為のもつ意味、そして〈聴く〉こととしての哲学の可能性についても考えてみたい。
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