1965年にスイスのユング研究所から帰ってきて、天理大学での教職に戻って7年間を過ごした。臨床心理の仕事は帰ってすぐに始めたものの、ユング研究所で学んだ夢や神話や昔話というのは、日本では受け入れられづらいと考え、ゆっくり導入した。けれど、早い段階で導入したのが、変化が目に見えて説得力のある箱庭療法だ。天理大学では、日本としては非常に早い時期から外部に開かれた相談室として教育相談室をつくることができ、これがカウンセリングの足場となった。
同じ時期、京都大学文学部で非常勤講師としてユング心理学の講義をしていた。その講義をまとめて『ユング心理学入門』を出したときも思い切ったことを書かなかった。
1972年に京大の助教授になり、臨床心理の講義で昔話の話をしてみたところ、学生の反応がよかった。これならいけると、少しずつ、昔話や文化人類学のイニシエーションについて学界の中で話しはじめた。
1975年に京都大学の教授になった頃から、自分の思っていたことを外に発表するようになった。「昔話の深層」を『子どもの館』に発表したり、『中央公論』で日本が母性社会だということを発表したり、臨床での経験をもとに文化的なことを発言しだしたわけだ。
これは一般の人にはわりと理解され、心理学以外の分野の人からはかなり評価されたようだった。ところが、心理学界のほうでは全く関心を持たれなかった。
心理療法に専念していた1970年の終わりごろ、哲学者の中村雄二郎らの入っている私的な会に入れてもらい、心理療法の外から心理療法を考えることができた。当時の心理学の主流だった実験心理学の人には理解してもらえなかったことを、この会の人たちはよくわかってくれた。自分のやっていることを人にわかりやすく、いろいろな角度で伝えられるようになったのはこの会のおかげだ。
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