2006年1月16日、いつものライブドアの風景の通り、音楽を聴きながら仕事をする人、アロハシャツにサングラスの人、黒づくめのスーツを着ている人など、様々なスタイルで多くの人が働いていた。
そのような日常の中で、友人からメールが届く。「お前の会社、大丈夫か?」
フロアには報道部門のデスク周辺に人だかりができ、当時「美人広報」と有名になっていた乙部綾子氏が叫びながらやってきた。これはただごとではないという雰囲気である。
テレビ画面に目をやると、「ライブドア 強制捜査」の文字。世間を騒がせた「ライブドアショック」の始まりだ。
しばらくして、東京地検特捜部が強制捜査を開始。捜査に来たのは、スーツ姿の10数名のようだった。パソコンと携帯電話に触ってはいけないという指示だったが、24時間手作業が必要なニュースページの更新などはこっそりと作業を続けた。その時配信されたニュースには、「ライブドアへ強制捜査」というものまであったらしい。
強制捜査を受け、ライブドアの事業の中で特に広告事業に打撃が大きかった。努力を重ねて伸びていた広告出稿が、過去の9割減にまで落ち込んだのだ。直近で獲得していた、一流企業からの広告出稿に歓喜していた矢先の非常事態に、広告営業チームの悲しみは大変なものだっただろう。
ライブドアは「時価総額世界一の会社を目指す」ことを目的として掲げていたため、メディアに取り上げられて有名になっても、気を抜くことは一切なかった。六本木ヒルズという場所に似つかわしくなく、寝袋で会議室に寝泊まりして、サービス開発に集中していた。連結社員数3000名にして、良くも悪くも中小ベンチャーのような雰囲気を保っていたのだ。
そのため、社内ルールや組織体制の整備は後回しにされ、現場は全力で働く異常な「躁」状態で、皆が疲労困憊でもあった。
ライブドアの社員は、会社で一生勤めあげると考えるのではなく、手に職をつける意識で働いていた。そのため、ライブドアショックの際も、各社員は自律的に動き、即座に運営が止まる訳ではなかった。
よく「ライブドアは虚業だ」「ネットビジネスという錬金術」と言われていたが、そのライブドアを実像以上に評価していたのは世間や市場である。「Google」「Facebook」「LINE」などの世界を代表するサービスもインターネットサービスであるし、仕組みそのものに価値があると言える。
社員は「インターネットサービス」が心底好きだったし、ユーザーからの支持を純粋に喜んでいた。しかし、外部からは不正を働いたとレッテルを張られ、創業経営者が姿を消した現状に、残った従業員はやりきれない気持ちで過ごしていた。
2000年代前半には若者の挑戦意欲が溢れ、ベンチャー企業が伸びていた。そんな中で、ライブドアショックによって社会としての覇気がなくなり、気弱な雰囲気になっていったことに対して著者はもったいなさを感じていた。
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