物質面で満たされ、「心の時代」に入ったと言われる現代社会は、根底から揺らいでいる。そのなかで仏教は生きる指針になり得る、と著者は書く。仏教は宗教や慣習というより、人の生き方を示す哲学と言えるからだ。
しかし、著者はまた、この5年、10年で世の中の不確実性が高まったとは考えない、とも書く。仏教の観点から考えると、この世で経験するあらゆることは多くの要因からなる因果関係の網目において成立している。だからこそ、ものごとに「絶対」はないのだ。とすれば、1年後のことすら予測できないのはものの道理と言えよう。「はじめから世界はVUCA」なのである。
仏教は、「苦しみを発生させないように」という考えを根本に持つ。不確実な未来予測は、ともすると「予測通りに進まなかった」という苦しみを生じさせる。その苦しみをゼロにはできなくても、ものごとは絶対ではないということがわかっていれば、「今」なすべきことに集中できるはずだ。
短期的・個別的な利益を求める資本主義の綻びを考えると、「長期的・全体的な利益を重視することが、ポスト資本主義的な社会」になるのではないか。
「あらゆるものごとは因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない」とする、仏教の「中観」や、「あらゆるものはなにかに認識されることによって存在する」という「唯識」によれば、「私」という概念は「他者」がいて初めて成立する。とすると、局所最適は周囲とのバランスを崩す可能性がある。「私」は「他者」と切り離せないので、他者の利益は必然的に自分の利益にもなると考えるべきなのだ。
ロジカルで科学的な哲学である仏教に「輪廻転生」があるのも、長期的・全体的な利益を説くためであるという。これは、ゲーム理論における「囚人のジレンマ」と同様だ。人生が一回きりであれば、自分の寿命が尽きるのと同時に自分の利益を最大化できればよい。しかし、仮に人生が無限繰り返しゲームだとすれば、「自分と他者の利益を等しく考えて協力し、妥協点を見つけたほうが、戦略としては有利」になる。釈迦牟尼が来世を否定していないのは、そのほうが個人も社会もうまくいくと考えたからではなかろうか。
欲望は仏教にとっても大きな命題である。潜在意識から生じる欲望を制御できなければ、真に心穏やかな生活を送れない。ここでヒントになるのが「唯識」だ。
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