人生の目的を見失う若者が増えている。給料をもらうために働き、趣味に生きがいを求める人も多い。時代の流れではあるが、そればかりでは空しくなる。
「仕事に打ち込み、世の中に役立ち、自分自身も幸せだった」と感じられる生き方は、「最終的にみなが求めているもの」だろう。「善を追求するという人間の本質は変わらないから」だ。
人生経験を積んだ三十代後半以降の人たちが、「古い話は通じないと思い込み、人生について話していない」。自信をもって自分の生き方を語る姿に、若者もきっと共鳴するはずだ。
アメリカでは高校までは人生の目標を醸成するために、大学に入ってからはその目標を達成するために勉強する。一方日本では、子どもに対して「自分の人生目標をどのように設定するか」を学ばせることがない。
人生の入り口では、「自分はどういう人間なのか」「人生をどう生きたらいいのだろうか」について考える機会が必要だ。人生の目標を持った人と、そうでない人とでは、「人生の後半で相当な差がついてしまう」。
ひとつのことに打ち込み、それを究めることで森羅万象を理解できる段階に達する。長年の仕事で素晴らしい技術を習得した大工さん、修行で人格を磨いてきたお坊さん、一芸を究めた作家や芸術家などの話には大変な含蓄があるものだ。
地味な仕事ばかり続くと「こんなことばかりしていていいのだろうか」と不安がり、他の仕事を求めたくもなる。しかし、広く浅い知識は何も知らないのと同じだ。
一方で、最初に決まった仕事が生涯の仕事になるわけではないものの、ただ辛抱すればいいということでもない。ひたむきに努力して、「常にこれでいいのか」を振り返る。いつも同じことを、同じ方法・同じ発想でやってはいけない。
小さなことでも毎日反省し、改良する。それは長い年月を経て、素晴らしい進歩につながる。「基礎を教わったら、自分自身で工夫していく」、それが創造だ。
常に、原理原則を基準として判断し、行動することだ。常識や経験だけでは、新しいことと向き合ったとき、解決できずにうろたえてしまう。
原理原則に基づくことは、道徳や倫理を基準として、「人として正しいことを正しいままに貫いていこう」ということだ。人としての道理に基づいた判断は、どんな環境でも通じる。このような判断軸が持てれば、未知の世界にも動じずに飛び込んでいける。
人間には、闘争心や嫉妬など、自分を守ろうとする「本能心」と、論理的に推理・判断する「理性心」がある。本能心を抑えることで、心に空間が生じて理性心が芽生える。
本能心を完全になくしたら生きていけないが、最小限に抑えるよう努めるべきだ。欲望が出てきたら「勝手なことを思うな」と自分に言い聞かせる。この習慣が理性心と、正しい判断につながる。
人間には、繊細で内気な人と、大胆で外交的な人という2つのタイプがある。仕事には、この両面が必要だ。
3,400冊以上の要約が楽しめる