flier_logo
ゴールドプランなら4,000冊以上が全文読み放題! 7日無料体験はこちらから

本書の要点

  • 将来を嘱望されドイツに国費留学していた太田豊太郎は、現地で踊り子エリスと恋に落ち、出世の道からは外れたが、貧しくも幸せな生活を営むようになる。

  • エリスが妊娠した頃、かつての学友の計らいで、豊太郎は名誉回復の機会を得て日本への帰国が叶うことになる。

  • 豊太郎はエリスをドイツに残して帰路につき、帰国の船内で自分に残った恨みを回顧する。

1 / 4

帰路

恨み

石炭はもう積み終えてしまった。今宵は他の乗客はみな陸の客館に泊っていて、船に残っているのは私一人である。

5年前、平生の希望がかなって、洋行の官命を受け、このサイゴンの港まで来た頃は、見聞きするものすべてが新しく、毎日のように紀行文を書いたものだ。こんどの旅では、日記用にと出発前に購入した冊子は白紙のままである。

ドイツから東へ帰ろうとしている現在の私は、西に航ろうとしていた頃の私ではない。学問には飽き足らぬところが多いが、浮世のつらさを知ってしまった。人の心は頼みがたく、自分の心さえも変わりやすい。だが、すぐに移ろう自らの心を筆に写して人に見せられないから日記が書けないというわけではない。これには他の理由がある。

イタリアの港を出てから20日あまり。乗り合わせた船客と旅の退屈を慰め合うのが航海のならわしであるが、体調不良を理由に船室にこもっているのは、恨みに頭を悩ましているためだ。こればかりは私の心に深く刻みつけられ、簡単に晴らすことができない。

周囲に人のない今宵、そのあらましを綴ってみることにしよう。

2 / 4

近代的自我の目覚め

神童

ilbusca/gettyimages

幼い頃から厳しい家庭教育を受けていた。父を早くに亡くしたが、学業では太田豊太郎の名はいつも一級のはじめに記されていた。19歳で学士の称号を受け、大学開校以来の名誉であると言われ、某省に出仕してからは故郷の母を東京に呼び寄せ、3年ほど楽しい日々を過ごした。

官長からの覚えもめでたく、洋行の命を受け、功名と興家の機会に心が沸き立ち、50を超えた母との別れもいとわず、ベルリンの都にやってきた。

このヨーロッパの大都市にはあまたの景物がひしめきあい、ひとつひとつじっくり見る暇もないほどである。しかし、無意味な美観に心惑わされてはならぬと誓いを立てていた私は、迫りくる刺激を遮っていられた。事前に許可を得ていたとおり、役所仕事の暇には大学で政治学の講義を受講した。

器械的な人間

こうして3年ほどは夢のように過ぎてしまった。私はそれまで他者からの賞賛を糧に、勉学に仕事にと励んできたが、自分が消極的で器械的な人間であることに気づかされたのである。

もっと見る
この続きを見るには...
残り4034/4923文字

4,000冊以上の要約が楽しめる

要約公開日 2024.09.28
Copyright © 2026 Flier Inc. All rights reserved.

一緒に読まれている要約

変身
変身
フランツ・カフカ
いつも使っているコンタクトレンズのことを、あなたはほとんど知らないかもしれない
いつも使っているコンタクトレンズのことを、あなたはほとんど知らないかもしれない
吉田忠史
百年の孤独
百年の孤独
ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直(訳)
三四郎
三四郎
夏目漱石
哲学入門
哲学入門
戸田山和久
イーロン・マスクを超える男 サム・アルトマン
イーロン・マスクを超える男 サム・アルトマン
小林雅一
「数字のセンス」と「地頭力」がいっきに身につく 東大算数
「数字のセンス」と「地頭力」がいっきに身につく 東大算数
西岡壱誠
経営を教える会社の経営
経営を教える会社の経営
グロービス内田圭亮(執筆)

同じカテゴリーの要約

「気が利く」とはどういうことか
「気が利く」とはどういうことか
唐沢かおり
無料
なぜ、これが名画なの?
なぜ、これが名画なの?
秋田麻早子
現代社会を生きるためのAI×哲学
現代社会を生きるためのAI×哲学
谷口忠大鈴木貴之丸山隆一
東大研究員がゼロから考えてみた「宇宙の常識」
東大研究員がゼロから考えてみた「宇宙の常識」
澤田涼
君たちはどう生きるか
君たちはどう生きるか
吉野源三郎
ゼロから学ぶ ビジネスと人権
ゼロから学ぶ ビジネスと人権
塚田智宏
言語化するための小説思考
言語化するための小説思考
小川哲
直感を裏切る数学
直感を裏切る数学
神永正博
新版 思考の整理学
新版 思考の整理学
外山滋比古
なぜ働いていると本が読めなくなるのか
なぜ働いていると本が読めなくなるのか
三宅香帆