石炭はもう積み終えてしまった。今宵は他の乗客はみな陸の客館に泊っていて、船に残っているのは私一人である。
5年前、平生の希望がかなって、洋行の官命を受け、このサイゴンの港まで来た頃は、見聞きするものすべてが新しく、毎日のように紀行文を書いたものだ。こんどの旅では、日記用にと出発前に購入した冊子は白紙のままである。
ドイツから東へ帰ろうとしている現在の私は、西に航ろうとしていた頃の私ではない。学問には飽き足らぬところが多いが、浮世のつらさを知ってしまった。人の心は頼みがたく、自分の心さえも変わりやすい。だが、すぐに移ろう自らの心を筆に写して人に見せられないから日記が書けないというわけではない。これには他の理由がある。
イタリアの港を出てから20日あまり。乗り合わせた船客と旅の退屈を慰め合うのが航海のならわしであるが、体調不良を理由に船室にこもっているのは、恨みに頭を悩ましているためだ。こればかりは私の心に深く刻みつけられ、簡単に晴らすことができない。
周囲に人のない今宵、そのあらましを綴ってみることにしよう。
幼い頃から厳しい家庭教育を受けていた。父を早くに亡くしたが、学業では太田豊太郎の名はいつも一級のはじめに記されていた。19歳で学士の称号を受け、大学開校以来の名誉であると言われ、某省に出仕してからは故郷の母を東京に呼び寄せ、3年ほど楽しい日々を過ごした。
官長からの覚えもめでたく、洋行の命を受け、功名と興家の機会に心が沸き立ち、50を超えた母との別れもいとわず、ベルリンの都にやってきた。
このヨーロッパの大都市にはあまたの景物がひしめきあい、ひとつひとつじっくり見る暇もないほどである。しかし、無意味な美観に心惑わされてはならぬと誓いを立てていた私は、迫りくる刺激を遮っていられた。事前に許可を得ていたとおり、役所仕事の暇には大学で政治学の講義を受講した。
こうして3年ほどは夢のように過ぎてしまった。私はそれまで他者からの賞賛を糧に、勉学に仕事にと励んできたが、自分が消極的で器械的な人間であることに気づかされたのである。
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