世間では堀江貴文が「欲しいと思ったものはどんな手を使ってでも手に入れる、強引、強欲な人間」と思われているところがあるが、実際にはそんな強固な意思や執着はない。
堀江が生きていく上での一つの信条のようなもの、それは「水が低きに流れるように、自然に身を任せる」ということだ。彼が起業するまでの経緯を振り返ってみても、まさにその通りで、時代の流れや、自分の感情に素直に従った結果、会社の社長になっていたに過ぎないのである。
窮屈さを感じていた九州の地元から上京し、東大に入学したものの、ギャンブル漬けの毎日を送っていた堀江は、パソコンやプログラムに関わるバイトに熱中していた。当時はインターネット黎明期で、ホームページ制作の仕事が次々と舞い込んでくる。当時付き合っていた彼女や大学寮の先輩までバイトに引き入れるなどして業務はどんどん拡大していった。
転機となったのは、当時バイトしていた会社の上司が出向元の会社に戻り、外部から新しい人がスカウトされて入ってきたことだ。前の上司はパソコンのことがほとんど分かっていなかったが、仕事を次々と受注し、一介のバイトに過ぎない堀江に、さらにバイトを雇うほどの自由を与えてくれていた。だが、新しくやってきた課長は、典型的なサラリーマンオヤジで、仕事を軽んじているし、単にITは儲かると思い込んで転職してきたような人だった。
既に個人での仕事も請け負っていた堀江は、この新たな上司の登場がきっかけで、自分の会社を作ることを決意する。一番自然で、一番自分が楽しめそうな道が、IT系で起業するということだったのだ。
1996年4月23日に設立された有限会社オン・ザ・エッヂは六本木の古びたビルのワンルームからスタートした。「起業してから仕事をもらう」というよりも「仕事があるから起業した」という感覚だったが、開業して間もなく「仕事がありすぎて回らない」という状況に陥ってしまう。
設立時のメンバーは3名だったが、仕事も人もどんどん増えていき、半年も経たないうちに同じビルの広い部屋に移転するやいなや、すぐに手狭となり、ワンフロアまるごと借りるようになった。さらに1年もしないうちにワンフロアでも足りなくなり、最終的には3フロアを借りるほどになっていた。堀江は会社に寝泊まりし、たまに家に帰ったとしても寝るくらいで、休みなく働いていたという。
上場を意識するようになったのは、公私ともに付き合いのあった藤田晋のサイバーエージェントが創業から2年で上場を果たした様子をそばで見ていたからだ。負けず嫌いの堀江は間違いなく感化されていたという。
昔からの仲間たちのなかには上場に反対する者も多く、上場の話を聞いてから10名もの社員が辞めていった。目の前に多くの仕事を抱えている会社としては痛手であったが、「彼らのような人はいずれ辞めるようになったろうからしょうがない」「うちの会社にどうしても必要な人材ではなかった」と自分に言い聞かせ、寂しさを紛らわせるしかなかった。
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