アップルの天才工業デザイナー、ジョナサン・アイブ(以下、ジョニー)は、1967年に英国で生まれた。銀細工職人でありデザインテクノロジーの教育者でもある父親から受け継いだ才能は、高校時代にはすでに群を抜いており、16歳にしてロンドンの大手デザイン事務所から注目され、卒業後にその会社で働くことを約束する代わりに大学の学費を援助してもらうほどだった。入学したニューカッスル・ポリテクニック(現ノーザンブリア大学)で工業デザインを学んだジョニーは、在学中に多くの賞を総なめにし、インターン先のデザイン事務所では経験豊富なデザイナーを押しのけて中心的な役割を果たしていたという。
アップルに出会ったのも大学時代のことだ。手にした瞬間、それまでに試したどんなマシンよりも使いやすいことに驚いた。総合的なユーザー体験を提供しようとデザイナーがマシンに込めた心配りに感動したのだ。
ジョニーは卒業後に2つのデザイン事務所で活躍したが、営業よりもデザインに注力したいという思いを強めていたことに加え、デザインコンサルタントという部外者としての立場では真のイノベーションを起こすのは難しいとも感じていた。そのとき、ジョニーはアップルの工業デザイングループ(IDg)の責任者であるロバート・ブルーナーから勧誘される。悩んだ末にジョニーがアップルに入社したのは、1992年、27歳のことだった。
アップルに入社すると、ジョニーは2代目ニュートン・メッセージパッドや20周年記念マッキントッシュのデザインを手がけ、多くの賞を受賞。どちらも本格的に普及することはなかったものの、その高いデザインセンスが賞賛され、社内からも高い評価を獲得した。
ジョニーを勧誘したブルーナーがアップルを去ると、後継者としてジョニーが指名された。まだ29歳と若く、経験不足を問題視する人もいたが、ブルーナーの右腕を務め、仲間から尊敬されていたジョニーは、ブルーナーの推薦もあって、その後釜に座ることになる。
しかし、その後はアップルにとって試練の時が待ち構えていた。1994年の時点ではアップルはIBMに次ぐ世界2位のコンピューターメーカーだったが、1995年にマイクロソフトが発売したウィンドウズ95が市場を席巻。アップルは16億ドルもの損失を出し、市場シェアは10%から3%に落ち込み、株価は暴落した。ジョブズ時代の独裁政治への反動から、トップダウンからボトムアップの企業に変わっていたものの、官僚的でスピードに欠け、製品開発は妥協を強いられ、まとまりのない製品が生まれてしまった。多くの製品はエンジニアリング主導の、新しさのかけらもない退屈なデザインとなり、デザイン部門の仕事の大半は電子基板に皮を被せて化粧を施すことだった。エンジニアリングとデザインがますます敵対的になり、ジョニーはIDgを任されて数カ月もしないうちに辞めようと思い始めていた。
そこに帰ってきたのがスティーブ・ジョブズだ。ジョブズは製品を次々と市場に出す戦略を改め、プロ用と家庭用のノートブックとデスクトップ、4種類だけを売ることにした。何十ものソフトウェア製品を切り捨て、ハードウェア製品のほとんどを廃止し、4200名を超える社員を解雇した。そして、ジョブズは工業デザインをアップル再建の核に据える。
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