1970年代の中国では、家電の国内市場というものが事実上存在しなかった。しかし、高まる需要につれて多くの地方自治体が自身で企業を立ち上げるようになり、1978年に20社しかなかった国内家電メーカーの数は、1985年には115社に増加した。それでも製品の品質はきわめて低いままだったが、製品の供給が不足していたために値段は高騰した。
中国東北部の山東省、青島市が管理する冷蔵庫工場「青島冷蔵庫」も、ほかの多くの企業と同様、品質と労働意欲の低さで知られていた。青島冷蔵庫は底なしの経営危機に陥っており、新技術の導入も止まっていた。が、当時別の家電会社の副部長をしていた帳瑞敏(チャン・ルエミン)という若い役人が、青島冷蔵庫に競争力をつけるため、海外から生産ライン技術を導入する仕事を任せられた。ドイツのリープヘル社から生産ラインを買い取ることに成功した帳は、新しい工場長を探すも見つからなかったため、仕方なく自身が責任者になる。ここから「ハイアール」の歴史が始まる。
帳は、製品の品質の高さを基盤に強力で価値のあるブランドを構築すれば、差別化が図れるはずだという信念を持っていた。故障した冷蔵庫を売っていては、そのビジネスモデルを実現できない。
1985年のある日、ある客が不良品の冷蔵庫を工場に持ち込んで帳に見せた。帳とその客は一緒に400台ある在庫をすべてチェックし、代わりの製品を探した。その過程で、帳は在庫商品の20%が受け入れがたいレベルの品質であることに気づいた。
意を決した帳は、76人の従業員に76台の低品質な冷蔵庫を運び出させ、表通りの公衆の面前で巨大なハンマーを使って粉々に破壊させた。新品の価格で売ることができた製品をだ。
この出来事は人びとの記憶に強く残り、少なくともハイアール従業員や顧客が2世代にわたって今でもその話をしている。また、この出来事により、中国のほぼすべての消費者の頭の中で、ハイアールというブランドと品質が強く結びつけられたのだ。
「高品質で差別化された商品を高値で売る」というビジョンは、当時の中国では想像もつかないことだった。供給さえあれば需要が生まれる、完全な売り手市場だったからだ。しかし帳は、経済革命が将来市場の激変を生み、差別化された商品はそのときに強い競争力をもつはずだと確信していた。
しかし、従業員は、努力をしても収入が上がらないことを見越して、やる気を失っていた。
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