本書で議論する「プロデューサー」とは、「新しいことをする人」「創造的な活動をする人」のことである。プロデューサーはリーダーではない。管理者でもない。人びとをワクワクさせるような、目に見える何かを自分の手で創る人のことである。プロデューサーの創造的な活動やその現象を、本書では「プロデューサーシップ」と呼ぶ。あるプロデューサーの活動に、これまでに見られなかった新しい何かがあり、その「何か」が、所属する組織やコミュニティにプラスの成果をもたらすとき、そのプロデューサーには「プロデューサーシップがある」と考える。本書では、映画プロデューサーのケースを参考にしながら、プロデューサーシップを兼ね備えた、一般の企業で活躍するプロデューサーについても議論していく。
そもそも、職業プロデューサーと呼ばれる人たちはどのような活動をしているのか。『Shall we ダンス?』(1996年)などのヒット作で知られる桝井省志氏の事例を見ていこう。映画プロデューサーだった桝井氏は、1994年にアルタミラピクチャーズという独立プロダクションを設立している。この制作会社には、2人の映画監督が共同経営者として所属していた。そのひとりである周防正行氏は、中年サラリーマンが社交ダンス教室に通い人生に彩りを添えていく物語を企画書にまとめた。桝井氏がその企画を大手映画会社に持ち込み、映画制作がスタートする。
当初、『Shall we ダンス?』のラストシーンは、既存のダンスホールを借りて撮影することになっていた。ところが、自分たちのイメージに合う、ちょうどいい大きさのダンスホールが見つからない。もしラストシーンのためにダンスホールのセットを作れば、確実に予算をオーバーし、アルタミラピクチャーズが赤字分を補填しなければならない。
周防監督との徹底的な議論の末、桝井氏は「セット撮影を選択することでラストシーンが良くなる」という自分たちにとっての価値は、「持ち出し」となる損失額よりも大きいものであると判断した。アルタミラピクチャーズはこのセット撮影のために約3000万円を自己負担した。
結果的に、『Shall we ダンス?』は約200万人を動員し、約16億円の配給収入を稼ぐ大ヒットになった。さらにその年のほぼすべての映画賞を総取りし、周防正行氏は名実共に日本一の映画監督となったのである。
プロデューサーの役割をより一般的な言葉で言えば、「開発」(シナリオを作り、監督と議論し、編集する)、「生産」(スタッフを集め、トラブル対応をし、予算と納期を守る)、「販売」(企画を作り、製作費を決めて収支計算をし、映画を宣伝する)の3つに大別できる。映画プロデューサーの仕事は、一般の会社で行われている作業と、実は何も変わらない。唯一違うのは、
3,400冊以上の要約が楽しめる