イランは70年代にシャーの独裁政権下の社会・産業改革で年間成長率平均10%近い経済成長を遂げたが、急激な社会の変化と宗教の弱体化を図る政策に人々は動揺し、様々な立場から体制批判が噴出した。
政権非難で国外追放となった聖職者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーは、15年間の国外生活の間にイスラム教主導の革命と新国家を構想し、それへの確信を深めていった。そして君主制崩壊後イランへ戻ると、若い世代の圧倒的な支持を背景に、イスラム革命を強化し、聖職者の統治を確立させた。
近代化を求める第三世界の人々にとって、ソ連がわずか数年で農民の国から強大な産業国家に変わったことは驚異であり、マルクス主義は説得力あるものに思われた。実際にアフリカ、中米、東南アジア、どこを見ても共産国が台頭していた。
険しい山岳地帯に覆われたアフガニスタンでも、73年クーデターで王制が廃止され、まもなく共産主義政党が政権を握った。共産政権は、ほかの第三世界で近代化を推進した人たち同様、自国の後進性を嫌悪し、複雑な人種的・社会的多元性を無視して、共産主義という1種類のテンプレートを当てはめようとした。しかしここでも宗教をないがしろにした急進的な改革プログラムは社会に混乱と反感を招いた。
イスラム世界はかつて歴史的に高い文明や科学を誇ったが、19世紀末までに覇権はヨーロッパに移った。このため20世紀に入るとイスラム世界の知識人の間では、西洋近代化が唯一の道と結論づけ、共産主義や急進的民族主義などの欧米イデオロギーを受容する人が増加した。
その一方、問題は宗教ではなく宗教の欠如であり、必要なのはむしろコーランの教えの復活だとし、イスラム教を暴力的な社会変革の勢力と捉える思想も出てきた。このような考えはアフガニスタンでも次第に広がり、特に60年代後半から、自国の独裁者だけでなく、左派勢力や伝統的な宗教支配層にも対抗する若いイスラム教徒が増加した。
70年代にはさらに幅広い政権への抵抗運動が起こり、79年には事実上無政府状態に陥った。これをうけて同年ソ連はアフガニスタンへの直接的軍事介入に踏み切っており、その後武力紛争は長期化している。
欧米では当時、冷戦の対立構造からしか世界を理解しておらず、イスラム教徒が世界秩序を揺るがすなど、ましてアフガニスタンのような遅れた周縁でそれが起こるなど予想していなかった。しかしイスラム革命やイスラム国家構想に熱狂したウサーマ・ビン・ラーディンのような若い世代はアフガン戦争を聖戦とみなし、戦争を世界的に拡大しようとする過激な世界的聖戦理念を拡散していった。
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