史記列伝

未読
史記列伝
出版社
岩波書店
出版日
1975年06月16日
評点
総合
4.5
明瞭性
4.5
革新性
4.5
応用性
4.5
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おすすめポイント

『史記列伝』は、世界で最も有名な歴史書の一つ、司馬遷による『史記』の人物伝の部分にあたる。『史記』は、中国古代の伝説上の帝王、黄帝から、夏、殷、周、春秋戦国時代、秦、と時代を下り、前漢の武帝の統治までの二千数百年にわたる歴史が記されており、約130巻からなる。なかでも『史記列伝』は、そのうちの70巻を占め、中国の歴史を彩った人物たちにスポットを当て、伝記的にまとめられている。日本でも古くから読みつがれており、小説や漫画などの題材になることも多い。紹介されるエピソードのうちには、「鶏口となるも牛後となるなかれ」など、今でも使われることわざもふんだんに含まれている。知らず知らずのうちにここにある内容に触れている方も多いであろう。

本書の記述、特にそれぞれの人物が語る内容からは、中国のはるかな歴史の厚みが感じられ、この一書を読み通すだけで、計り知れない知の蓄積を吸収できる。教養の中の教養として間違いのない書目である。またその一方で、物語としての面白さも兼ね備えており、想像の枠を超えた出来事の多様さに驚くことも請け合いである。

この列伝は人物単位での記述になっているため、知っている人物、気になる人物から読んでいくことができ、索引も充実しているので他の人物とのつながりも横断的に調べることができる。大部な著作ではあるが、各章は短く、読みやすい。本書に親しむことができれば、人生のあらゆる場面でこの本から無数のインスピレーションを得ることになるのは間違いない。そうした本当の古典の力を持った作品である。

著者

司馬遷
紀元前145年頃―前86年頃。天文と暦法を司る官吏の子であり、若いころから各地を遊歴した。22歳の頃から武帝に仕える。父の遺志もあって歴史書編纂を決意し、投獄されるといった苦難も乗り越え、『史記』を完成させた。

本書の要点

  • 要点
    1
    中国の前漢時代までの歴史上の人物が生き生きと描かれている。王侯、将軍といった大人物だけでなく、刺客や商人といった、歴史を描く上では陰に隠れてしまう人物の記述も厚い。
  • 要点
    2
    それぞれの人物を語る際に紹介されるエピソードは現在ではことわざとして語り継がれているものも多く、さまざまな示唆やひらめきに満ちている。
  • 要点
    3
    章の最後に置かれる司馬遷の端的な人物評は歯に衣着せぬ小気味の良いものであり、その人物の見方に奥行きを与えてくれている。
  • 要点
    4
    索引も充実しており、小説や漫画などの作品で気になった人物を調べるという使い方もできる。

要約

呂不韋列伝(2巻より)

奇貨居くべし

紀元前91年頃に空前の規模で成立した歴史書、『史記』のうち、「列伝」は個人の伝記をまとめたものである。日本でも古くは奈良時代から読み継がれてきた本書のうち、3つの項目についてみていく。

初めて中国統一を果たした秦を語る際に避けて通れない人物が、呂不韋(りょふい)である。後に大政治家となり、絶大な権勢を誇ることになる呂不韋は、もともと陽翟(ようてき)という地で商いを行う商人であった。各地に出向いて交易を行い、大いに財を蓄えていた。

ある時、商用で邯鄲(かんたん)という趙の国の都へ行ったとき、ある人物と出会った。当時、列国の一つだった秦の国から人質として趙の国に預けられていた、子楚(しそ)であった。子楚は秦の昭王の子、安国君(あんこくくん)の息子だったが、安国君には子供たちが20人以上もおり、子楚は不遇の身であった。呂不韋は思った。「この奇(めずら)しい貨(しなもの)は、居(たくわ)えておかなくちゃ」と。呂不韋は子楚を秦の王にしようという考えを抱き、後ろ盾になるべく奔走する。

栄華の絶頂を極める
cl2004lhy/iStock/Thinkstock

昭王の後を継ぐことになる安国君(後の孝文王)の正室、華陽(かよう)には子供がいなかった。一方で側室たちの子供は20人以上もおり、人質として外に出されるような境遇の子楚が安国君の跡継ぎになる可能性はゼロに等しかった。そこで、呂不韋はその財力にものを言わせて、華陽夫人に対してあふれんばかりの貢物を贈り、子楚が華陽を実の母のように慕っていることを伝えた。そして、他人の子を跡継ぎにするよりは、子楚を跡継ぎにするほうが華陽にとっても安心であることを、華陽の実の姉から説得するよう仕向けた。華陽はこれらによって心を動かされ、安国君に子楚を跡継ぎにしてほしいと伝えることになる。華陽を寵愛する安国君はそれを聞き容れた。こうして子楚は安国君の跡取りの地位を約束され、呂不韋はその世話役についた。

その後、昭王が崩じて後に即位した安国君はわずか1年で死去し、子楚がついに王となった。荘襄王(そうじょうおう)である。荘襄王は、呂不韋を日本で言う総理大臣にあたる丞相(しょうじょう)に任命し、呂不韋は一介の商人から一国の政治のトップにまで上りつめた。

荘襄王は3年で崩御し、政(せい)という子が王位に就いた。後の始皇帝である。即位した当時は13歳とまだ幼く、呂不韋はここで丞相と同じ職責でさらに位の高い、相国(しょうこく)となった。まさに栄華の絶頂であった。当時、呂不韋の家の使用人は1万人を超え、養っている才人の数は3千に達したといわれている。

没落と終焉
Lite Productions/iStock/Thinkstock

こうした呂不韋の権勢も長くは続かなかった。その原因となったのが、政の実母である太后との密通であった。この太后はもともと呂不韋の愛人であった女性だが、子楚に乞われて呂不韋が与えたのであった。一説には政の父は呂不韋であるともいわれている。

太后は色好みであったとされ、その性質は政が成長しても変わらなかった。呂不韋は密通を続けてそれが発覚することを恐れ、巨根として巷で有名であった嫪毐(ろうあい)という男に太后の相手をさせることを思いついた。役人を買収し、嫪毐を去勢した宦官であると偽り、太后のもとに送り込んだのである。呂不韋の狙いどおり、太后は嫪毐と通じ、寵愛は深まっていった。結果、子を二人もうけるまでに至ったのである。

この件につき、太后と嫪毐は不義密通の末に生まれた子を政の跡継ぎにしようと目論んでいる、という告発があった。

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要約公開日 2015.03.13
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