紀元前91年頃に空前の規模で成立した歴史書、『史記』のうち、「列伝」は個人の伝記をまとめたものである。日本でも古くは奈良時代から読み継がれてきた本書のうち、3つの項目についてみていく。
初めて中国統一を果たした秦を語る際に避けて通れない人物が、呂不韋(りょふい)である。後に大政治家となり、絶大な権勢を誇ることになる呂不韋は、もともと陽翟(ようてき)という地で商いを行う商人であった。各地に出向いて交易を行い、大いに財を蓄えていた。
ある時、商用で邯鄲(かんたん)という趙の国の都へ行ったとき、ある人物と出会った。当時、列国の一つだった秦の国から人質として趙の国に預けられていた、子楚(しそ)であった。子楚は秦の昭王の子、安国君(あんこくくん)の息子だったが、安国君には子供たちが20人以上もおり、子楚は不遇の身であった。呂不韋は思った。「この奇(めずら)しい貨(しなもの)は、居(たくわ)えておかなくちゃ」と。呂不韋は子楚を秦の王にしようという考えを抱き、後ろ盾になるべく奔走する。
昭王の後を継ぐことになる安国君(後の孝文王)の正室、華陽(かよう)には子供がいなかった。一方で側室たちの子供は20人以上もおり、人質として外に出されるような境遇の子楚が安国君の跡継ぎになる可能性はゼロに等しかった。そこで、呂不韋はその財力にものを言わせて、華陽夫人に対してあふれんばかりの貢物を贈り、子楚が華陽を実の母のように慕っていることを伝えた。そして、他人の子を跡継ぎにするよりは、子楚を跡継ぎにするほうが華陽にとっても安心であることを、華陽の実の姉から説得するよう仕向けた。華陽はこれらによって心を動かされ、安国君に子楚を跡継ぎにしてほしいと伝えることになる。華陽を寵愛する安国君はそれを聞き容れた。こうして子楚は安国君の跡取りの地位を約束され、呂不韋はその世話役についた。
その後、昭王が崩じて後に即位した安国君はわずか1年で死去し、子楚がついに王となった。荘襄王(そうじょうおう)である。荘襄王は、呂不韋を日本で言う総理大臣にあたる丞相(しょうじょう)に任命し、呂不韋は一介の商人から一国の政治のトップにまで上りつめた。
荘襄王は3年で崩御し、政(せい)という子が王位に就いた。後の始皇帝である。即位した当時は13歳とまだ幼く、呂不韋はここで丞相と同じ職責でさらに位の高い、相国(しょうこく)となった。まさに栄華の絶頂であった。当時、呂不韋の家の使用人は1万人を超え、養っている才人の数は3千に達したといわれている。
こうした呂不韋の権勢も長くは続かなかった。その原因となったのが、政の実母である太后との密通であった。この太后はもともと呂不韋の愛人であった女性だが、子楚に乞われて呂不韋が与えたのであった。一説には政の父は呂不韋であるともいわれている。
太后は色好みであったとされ、その性質は政が成長しても変わらなかった。呂不韋は密通を続けてそれが発覚することを恐れ、巨根として巷で有名であった嫪毐(ろうあい)という男に太后の相手をさせることを思いついた。役人を買収し、嫪毐を去勢した宦官であると偽り、太后のもとに送り込んだのである。呂不韋の狙いどおり、太后は嫪毐と通じ、寵愛は深まっていった。結果、子を二人もうけるまでに至ったのである。
この件につき、太后と嫪毐は不義密通の末に生まれた子を政の跡継ぎにしようと目論んでいる、という告発があった。
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