イスラームという文化は、ひとつの宗教を基盤として成り立つ、文化的枠組みといえる。イスラームはその地理的広がりからみても想像できるとおり、さまざまな伝統や慣習が絡み合う中で形成されてきた複雑な文化である。現在の時点でも、多数派であるスンニー派と、イランを中心とするシーア派の文化は根本的に違っている。しかし、このさまざまな要素を含んだイスラームはそれでもやはり一つの文化を形成している。その根底にあるのが、『コーラン』というただ一冊の本なのである。
『コーラン』は預言者ムハンマドが受けた神の啓示を記録したものであり、イスラーム教徒にとっての唯一無二の聖典である。イスラームを理解する上で最も重要なのは、イスラーム文化がこの『コーラン』の解釈によって出来上がってきたということである。「およそイスラーム的なものすべてが『コーラン』の解釈学にほかならない」のだという。
『コーラン』の解釈は、人間生活の全ての領域を覆っている。日本人が一般的に考える「宗教」と違うのは、イスラームは聖と俗を分けないという点である。たとえば、神社仏閣を聖なる領域として他と切り分けたりすることはない。イスラームでは「生活の全部が宗教」なのである。当然、政治や法律、あるいは道徳や芸術なども、すべてがそのまま宗教なのである。
このようにイスラーム文化は『コーラン』というただ一冊の本の解釈に根源があるとはいえ、テクストの解釈というものは本来的に自由であり、そのことがイスラーム文化の多様性につながっている。ときに真逆の意味にも解釈できてしまうというその自由さは、対立を生むことにもなる。現在に続くスンニー派とシーア派の対立はまさにそれなのである。
だが、多様性があり、対立があっても、メッカ巡礼の光景からも見てとれるように、イスラーム教徒の強烈な連帯意識は消えることがない。歴史的に、イスラーム共同体の指導者が、『コーラン』の解釈が許容範囲を越えてなされていると判断すると、異端宣告というかたちでそれを共同体から追放した。この異端宣告も、『コーラン』の解釈から生まれた制度であり、「神の敵」とみなされたものは死刑、全財産没収に処された。
つまり、『コーラン』がイスラームの対立を生み、また統一を生んできた。その繰り返しのなかで、イスラームの多層的文化構造ができあがったのである。
イスラームの立場からすると、ユダヤ教、キリスト教、イスラームは根本的には一つの宗教であるという。『コーラン』の表現によると、それらはどれもひとつの宗教が形を変えて出現した「永遠の宗教」なのである。この考え方は、存在界を絶対無条件的に支配する唯一の人格神のほかは一切の神を認めない、一神教の伝統に基づく。
3,400冊以上の要約が楽しめる