東日本大震災が起きた日の宮城県気仙沼市の日の出は五時五十五分、気温はマイナス三・七度。防災無線が「恋は水色」という曲を紹介した。そんな一日の始まりだった。気仙沼市の中央公民館と気仙沼魚市場との中間地点で、奥玉真大は酒屋「奥玉屋」を営む。魚市場は生鮮カツオの水揚げが日本一であるほど、日本有数の漁港を有していた。奥玉屋は漁師や付近の工場の従業員が、帰り際にちょっと一杯ひっかける場所だった。
あの日、奥玉は母校の南気仙沼小学校で、PL学園時代や社会人野球での経験談を後輩達に語っていた。午後の五時間目、授業を終え、午後二時前から校長と教頭と雑談していた時、地震が発生した。すぐ一年生の長男の教室に駆けつけ、先生の指示に従って避難するように指示、そして奥玉屋に戻り魚市場の様子を見るとハッとする。車の行き来がまったく絶えていた。急きょUターンするように中央公民館に向かう。
津波の予想は六メートルという。それであれば二日前の地震の際の予測と変わらないから大丈夫か。ところがラジオが津波は十メートルと予測を変更した。これはダメだ。
中央公民館の二階に駆け上がると、一景島保育所の園児らが避難している様子が目に入った。所長をしていた叔母の林小春を見つけた。「コーちゃん、こんなところにいたらダメだ。死ぬぞ。上さあがれ!」
一景島保育所の周辺には、魚市場や製氷工場や水産加工場が集中的に林立し、保育所の人気は高く定員は常に一杯だった。震災時に林は所長になって三年目だった。二日前の地震の際にも避難をしている。しかし、三月十一日の揺れは尋常ではなかった。そのため、林の判断は早く、まずお昼寝時間中の園児を落ち着かせ、園庭への避難を開始する。脱いでいた靴下は履かせず、素足のまま靴を履かせる。時間との勝負、と思ったからだ。
野球グラウンドを挟んだ先の中央公民館に誘導し、八分ほどで到着する。そして二階に避難していたその時、「上さあがれ!」の声が響いたのだった。
中央公民館に保護者が駆けつける。そして、他の子の迎えに行こうという人、子供の安全を確認して帰ろうという人、外の車に携帯電話を取りに行こうとする人の全てに対して、林はノーを出すように統一した。「帰られては困ります」「子どもたちだけ、置いていかれても困ります」「子どもを連れて帰っても困ります」すでに引き波が起きており、いつ津波が来てもおかしくはないのだ。
奥玉は避難が長丁場になる場合に備え、奥玉屋まで水やカップ麺を取りに行こうと車に戻ろうとした。しかし、車でテレビの映像を見ると、フェリーが津波で岸壁を超える画像が目に入ってきた。これはダメだ、と思い車から飛び出すと既にひざまで水位があった。一景島保育所の向こうの二階建ての建物がバリバリと音をたてて崩れる。近くの道路を渡ってきた老夫婦の夫の五メートル後ろにはその妻がいた。奥玉は夫の方を抱きかかえ中央公民館の非常階段を上った。その時、津波の第一波の濁流が押し寄せる。一人助けるのが精一杯だった。
一景島保育所の林所長は、園児七十一人を中央公民館の三階に避難させた。三階にはようかんを斜めに切った形のホールの屋根、ベランダのような屋上、一部に小さな建屋という構造となっている。避難のため、四百六十人が集中すると定員を大幅に超え、ぎゅうぎゅう詰めの状態だった。
海側の窓から魚市場の方角を見ると、津波が長い屋根を越えて砕け、海水の色は真っ黒に豹変していた。何十台もの車が風呂の玩具のように浮き沈みする。
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