著者は1995年9月にキリンビール高知支店長の辞令を受けた。それまでは東京本社で本部担当営業企画の部長代理として、有名量販店チェーンとの商談や販売施策を担当していた。当時は有名量販店が海外からビールを輸入し格安で販売する、ビールの価格破壊が始まっていた。著者はブランド維持、顧客視点から考えても、無謀な安売り合戦に反対していた。しかしそれは所属する部署や上司の意見とは異なるものだった。結果、全国でも苦戦地域のひとつで、負け続けている高知支店に異動となった。社内では「左遷だ」といわれた。
1907年に設立されたキリンビールは、1954年に国内シェア1位を獲得する。しかし、1987年にアサヒビールが「スーパードライ」を発売したことで、キリンはシェアを奪われはじめ、商品開発から営業に至るまで見直しを迫られていた。キリンは1995年にシェアを50%以下に下げるが、売れる時代が長く続いたため、営業が売るための苦労を知らないことが課題となっていた。
高知に着任後、著者は支店内に「負けている組織の精神風土」が定着しているのを実感する。営業マンは、本社指示の施策を酒販店に伝えるだけで、あとは日報をつけるという作業を繰り返すだけ。前任の支店長は、本社が設定した目標をいかに達成するかだけを考えていた。地域の特性を活かし、有効な手段を打つことは考えられていない。営業マンは危機感を持たず、リーダーもそれを黙認しながら、成績が悪いのは本社が設定した高い目標や、能力の低いメンバーのせいにしていた。
しかし、著者もどのような指示を出せばいいのか悩んでいた。未経験の地方での営業で、どうすれば売り上げが上がるのか皆目わからない状態であった。しかしやってはいけないこともわかっていた。総花的な営業である。多くの施策を適当にこなしていては、勝てるはずはない。「戦力の逐次投入」は必ず失敗するのである。
著者は営業施策を絞り込み、独自の施策として、営業力の効きやすい「料飲店マーケット」に狙いを定めた。高知県民は外で飲む機会が多く、料飲店でビールを飲んで「キリンが美味しい」と感じれば、家庭でも飲むはずだと想定したからだ。そこで、料飲店との接点を増やすために、個々の営業マンの料飲店への訪問目標を高く設定し、チーム全体で力を合わせて乗り越えることを目指した。同時に「バカでもわかる単純明快」というスローガンを掲げた。誰でも理解できる、単純なことを愚直に地道に徹底して行う。著者が高知支店でメンバー全員に伝えた最初の指示であった。
しかし、1996年4月に逆風が吹いた。長年にわたるトップブランドの「ラガービール」の味が変更となり、売り上げが急落したのだ。急成長する「スーパードライ」に危機感をもった本社が「ラガー」の「古い」「苦い」といったイメージを払拭するために若者を意識し、飲みやすさのある味へと方向転換したのだ。飲みごたえのあるラガーを好んでいた高知県民の中には、新しいラガーの味に反発を覚える者が多く、「スーパードライ」にますますシェアを奪われてしまう結果となった。
独自に営業施策を絞り込んだ高知支店は、目標の数字にまったく到達していなかった。しかしそれ以上に問題だったのは、料飲店への訪問目標が達成されなかったことである。
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