多くの人は人間関係や仕事、恋愛などの課題に対して、ベストもしくはベターな解決策を求める傾向にある。そして、その解決策をどうにかして手っ取り早く得られないかと思案する。しかし、それは安易で傲慢な考えだ。なぜならそれは、誰かから答えを与えてもらおうという他力本願な考えからくるものであり、自分の想像を標準だと思い込み、自ら予想し得る範囲における明確な答えを期待しているからである。ほとんどの答えはそのように単純には手に入らない。
すぐに正解を求める傾向は、現代人だけでなく、昔の人にも共通して存在していた。例えば仏教の禅問答に関する記録を紐解くと、当時の修行僧の多くが、偉いお坊さんである禅師から「悟り」への道を手っ取り早く聞き出そうと試みていたことがわかる。しかし、そもそも悟りとは、普段の見方を超越したものであり、言葉で整然と伝えられるものではない。禅師がたとえ話や体験を通じて教えていたものの、直球の回答ではないために、修行僧たちは、悟りへの道を教わっていることすら、ほとんど気づけなかった。
こうした修行僧たちのように、人生の答えを、自分の理解できる形で誰かから与えてもらおうと考え、狭い範囲で物事を捉えてしまうのは望ましくない。答えはすでに与えられている。それが見えなくなっているということは、自分で自分の両目を覆っているだけなのである。
何事もやってみなければ結果がどうなるかわからない。それなのに、始める前から「自分にできるだろうか」、「無理かもしれない」と結果を予測したり判断したりしてはいないだろうか。もし予測ができるのだとしたら、これからやろうとすることは、過去に自分がやってきたことの繰り返しにすぎない。なぜなら、過去の経験から、自分にやれるかどうかの当たりをつけているからだ。
ポジティブシンキングを正しく用いて、自分を変えたいのならば、過去の経験や感情、状況に振り回されずに積極的に考え、そして行動を起こしてみることが重要となる。物事の前向きな面に意識を向けられれば、負の感情が緩和され、自分の行動が制限されることも少なくなるだろう。
例えば、病気や怪我による不運を嘆き、「自分には運がない」、「誰かと比べて負けているのでは」などとネガティブに考えるのはよくない。キリスト教のカトリックでは、病気のときは「愛が集まる機会」だと考える。友人や知り合いは、病床にいる人を大切に思っているからこそ心配して見舞いにきてくれると考えるのだ。このように、一見不運なことであってもポジティブに捉えられるようになると、どんな困難も乗り越えられ、自分自身も確実に良い方向へ変化することができるのだ。
人は、中身(心)と外見(体)とを完全に切り離すことができると考えてしまいがちだ。しかし、ドレスアップした日は晴れやかな気分になる、スーツを着ると気持ちが引き締まる、サスペンス小説を読む間はつい緊張感に満ちた表情をしてしまう、というように、心と体は密接なつながりを持ち、互いに影響を及ぼし合っている。
さらに、こんな経験はないだろうか。スポーツをする際、「こうすれば上手くなるかな」、「こう教えられたからやってみよう」という雑念を頭の中から排除し、開き直ってその状況を楽しもうとした途端に、思いのほか上手くできたという経験だ。
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